本 『エベレスト登頂請負い業』 村口徳行著 (山と渓谷社)

m_E382A8E38399E383ACE382B9E38388E799BBE9A082E8AB8BE8B2A0E38184E6A5AD.jpg

フリーカメラマンの著者は、日本人では最多のエベレスト登頂を5回果たしている。本物の登山家をしのぐ登山家カメラマンである。カメラマンの活動分野は多岐にわたるが、この人は世界一の高峰を極めたい登山者を追って、動画やスチル写真を撮りに同行し、あげくに御本人も登ってしまっているという稀有なスーパーカメラマンである。

著者はエベレストには十数回挑んでいるが、この本では三浦洋一(御本人は途中下山、エベレストはかつて海の底にあったことを証明するの化石調査隊は登頂)、野口健(七大陸サミッツを目指していた)、渡辺玉枝(女性では最高齢65才の登頂)、三浦雄一郎(70才、75才の二度登頂)、著者自身の記録を取り上げて、各自の登山タクティクス表を添えてある。

多くの挑戦者は5500mの地点にBC(べースキャンプ)を設営し、6200mあたりにC1(第一キャンプ)を置き、7500mのコルにC4のキャンプを設けて、体力、気力、気象条件などを勘案して頂上を目指す。常に崩壊の危険がある高層ビルのような氷柱、氷壁がそびえるアイスフォール、行く手を遮るヒラリー・ステップ、スパっと数千メートルの氷河の谷底を望むナイフリッジ、あるいは登山コースに放置されたままのむごい遺体など体感しつつ、筆舌に尽くしがたい凄まじい強風、雪と氷をついて登る。

そこに至るまでには約2箇月の準備トレーニング、遠征費用、装備食料、ポーターやシェルパの招集など大変な登山隊編成作業をこなさなければならない。著者は、その方面でもエキスパートになっているのだ。

諸条件がよければ、BCから4日間で山頂へ。三浦雄一郎の場合は、高齢者なので7日間で完遂している。いまさらながら、これらの人々の登高に驚嘆させられるが、なんでまた、そんなにしてまで登るのか、という心情にかかわる記述は少ない。むしろ血わき肉躍るTV番組の被写体になりたがっているんじゃないかと思ってしまう。

この人たちの動機がどうであれ、登山の記録はすべてTV番組化されている。いまさらながら、現代では純粋な意味でも冒険は行いがたい。世界最高齢登山者、女性最高齢、最年少七大陸サミット達成者などのタイトルを得る行為が、劇場化されているのであり、著者のすごい実績も、その冒険物語の記録をする目的のななかで果たされている。

そのことから、こうした業績を低く評価する向きもあるかもしれないが、ほんのすこし山歩きをする者にとっては、やはりエベレストは夢とあこがれの世界である。著者はエベレスト登山はある程度の体力と技術を持ち合わせていたら、果たせることだと言っているが、その「ある程度」のハードルはあまりにも高く険しい。

本 『サイゴン ハートブレークホテル』 (講談社)

fall_of_saigon.jpg

あのベトナム戦争(1960-1975)は、遠い過去のことになった。若い頃、メコンデルタや解放区の戦況に一喜一憂し、とくにアメリカの全面的な戦争介入に強い憤りを感じていた。朝鮮戦争もその前の太平洋戦争も、幼すぎて具体的なことは記憶にないのだけに,同時並行的な感覚で戦争といえば、ベトナム戦争であった。

その戦争の報道のためアメリカABCTVのカメラマンとして現地に長くいた平敷安常さんの回顧録。副題に「日本人記者たちのベトナム戦争」とあるように、欧米のジャ-ナリストとの交遊のほかに日本の報道各社の常駐特派員、移動特派員たちの言動、取材活動を記録している。さらに現存の特派員OBたちが著者に宛てた回想も収録している。


saigon.jpg





分厚い力作で、中身をひとまとめに紹介するのは、至難のこと。印象的なことをいくつか挙げる。
ベトナム陥落のシンボルとされた「アメリカ大使館からヘリで脱出する避難民」の有名な写真は、じつはアメリカ大使館ではなくて、CIA要員の宿舎だったそうだ。間違った説明が全世界を駆け巡り、それを訂正するのに30年かかかった。撮ったオランダのカメラマンの述懐が興味深い。ロバート・デニーロの映画「ディアーハンター」でも劇中劇で挿入されていた。

日本の特派員連中は、どの社の方針も「危険を冒して戦争の取材をするな」と一歩も二歩も距離を置いた姿勢は基本方針。しょせんはアメリカの戦争であって、日本の戦争でないという認識だったとある。あの激烈な民族解放戦争について当時、読者として生々しい戦場に肉薄した記事と思って読んでいたことと、それを伝えていた記者たちの心情はそうとう違うようだ。ほんとうに危ないところの取材はフリーランサーにお任せという構造なら、いまの福島原発報道と変わりがないか。ある特派員は南ベトナム軍事軍支援本部の日々の広報や現地のラジオ、新聞からも情報が得られたと言っている。

そして、前線にまで出向き、真の語り部の資格を持ったライターは少なかったけれど、「on the spot」に生命を賭けなければ、写真が撮れないカメラマンとは違うと書いている。この現場を踏むことなしに写真が撮れないことからベトナム戦争報道のジャーナリストの犠牲は圧倒的にカメラマンが多い。数十人のカメラマンが命を落としている。

作家、開高健は朝日から派遣され、カメラマンと組んでヴェトナムに行き『ベトナム戦記』をモノにしているが、銃弾、迫撃砲が雨あられの前線に出向いて、歩兵の視線で戦争を描いている。実際の戦闘のときには、地面に伏せて、眼前を動くアリを凝視していたとあるのが興味深い。

ベトナム戦とは関係ないが、アメリカの優れた戦争従軍記者、アーニー・パイルは全員玉砕の島で知られる沖縄戦・伊江島で戦死していることを、この本で知った。

8bf21f6bcef4cfa0_S.jpg

米兵の横暴

沖縄でまた米兵による女性強姦事件が起きた。
95年にも小学生少女を海兵隊員三人による同様の事件が起きている。
このほか、過去も今も日常的に米兵による大小の犯罪が発生している。

これに対して日本政府はいつも通りいっぺんの遺憾の意の表明と米政府
への再発防止の抗議声明を出すだけである。憤る国民感情は時間がたてば、沈静化するとタカをくくっている。沖縄県民を含む国民を舐めたうえ、米政府には卑屈な姿勢で膝を屈している。

この問題の一番の原因は沖縄に米軍がほとんど無条件に駐留しているこ
とにある。米軍が居なければ、この種の問題は起きない。その根を日本
政府は根本的に絶つ気がない。だから、この種の事件が起きる可能性に
ついては、いわば容認しているのである。女性が犠牲になる可能性より
も米軍駐留が大切と考えているのである。日米基軸の正体は、日本人の
命や安全の犠牲の上にある。

唯一の地上戦で大きな犠牲を払わせられた沖縄。敗戦から米軍治政下、米軍リモコンの琉球政府、本土返還。冷戦のもと、米軍はアジアににらみを効かすの最大最強の要塞をつくりあげた。日本政府も全面的に協力
してきた。「おもいやり予算」など福祉予算と見紛う名目で巨額のカネを米軍の提供している。

兵隊たちは基本的に敵を殺害し、敵の軍事施設を破壊するための戦闘道具である。優しく親切で常識をわきまえた豊かな人間性は必要がない集団である。平和や平穏無事に馴染まない連中である。こうした連中が平穏な地域で共に暮らすことにムリがあるのだ。

兵隊たちは、本来隔離されるべきなのだ。血気のはやる連中を米政府は
自らの支配する土地で隔離、練兵すべきなのだ。敗戦国としての対価は
もう十分に払った日本は、こうした連中に出て行ってもらうことを緊急の課題にしなくてはならない。

冷戦はとうに終わっている。北の脅威はとうに解消している。米軍は北東アジアやイスラム文化圏に新たな脅威を設定して、沖縄から撤退しない。撤退したくないほど日本政府は土地提供、財政面で優遇している。

軍事技術の先端科学化は著しく、距離的な近接度は問題にならない。
冷戦終結とともに、米軍はどんどん海外の駐留基地を縮小している。
なぜ、沖縄から撤退しないのか。よほど米軍はここが居心地がいいのである。そうしているのは日本政府のが要請があるのに違いない。

日本は他国を侵略した歴史を持つが、元寇いらい他国から侵略されかけたり、かけたことはない。米軍と手を組むことは、危険を煽っているのに他ならない。日本人の安心安全を奪っているのである。古い流行り言葉の復活を促そう。

ヤンキー・ゴーホーム

ニュー大阪府知事

さきほどの大阪府知事選で大勝した橋下さん。じつはほとんどTVをみないので、こうしたタレント弁護士がいるとは、名前も知らなかった。

どんな人物なのか。知事就任三日目という夜、TVに出ていたので半時間ほど見た。かなり物事を断定口調にいう半面、けっこう腰が低く素直な姿勢も見せる。他のゲストの年長者へは、それなりの敬意を評している。そつがないところをうかがわせる。

NHKの司会者に予算の把握具合を問われて、気色ばむ。「まだ三日目ですよ。わかりませんよ」という趣旨のことを言って、そのあと「NHKのインサイダー取引はどうなったのか、まだはっきりしていないじゃないですか」と切り返していた。

ナマ番組でTV局の司会者にイラついている場面は珍しい。思うに三日目なのに、どうなる府政?なんて番組に出なければいいのだ。三ヶ月目でいいのだ。そんなに簡単に成果があるわけない。期待もしていない。

この人の弁護士活動は知らないが、年収三億円とも伝えられるギャラが本当だとすれば、TVにはそうとう出ずっぱりだったのだろう。いわばTVタレント上がりであるから、番組の出演要請があれば、反射的にムリなスケジュールにでも出るにちがいない。TVと一蓮托生のつもりなのだろう。

電波メディアで知名度が高い人が、今の選挙制度の強いのは、要の東西を問わない現代の傾向。この人の大勝の裏には民意が反映していることになるのが建前だが、だから、民意が正しいとはもう誰も本気で言えなくなっているのも事実。以前、強制わいせつ知事を選んだ民意である。政治の指導者として優れているかどうかとは、ぜんぜん別の問題である事は周知のことである。

過去の発言にも買春はODAとか、核武装容認論とか、昨今では岩国の米軍基地問題で安全保障にかかわる国政に地元がモノを言う必要がない、、などと話しているのは、気がかりだ。信念や本意ではなくて、そのとき、その場の場面の盛り上げのためや受け狙いといったことでの発言なら、なお気がかりだ。TV話芸では困るのだ。

元そのまんま東さんと同様にTV出演を駆使して、世論をリードするつもりのようだが、この断定口調の元気よさ、愛嬌に振りまく人気者に似た人物が、つい二年前にいたことを思い出す。自滅したホリエモンである。このホリエモンとどこか似た人物のような印象を持った。似て非なることを期待するが、一年くらいは、お手並み拝見だね。

ああ、福士自滅


女子長距離ランナーの第一人者、福士が大阪国際女子マラソンに一般参加して、19位、意識もうろう状態でゴールした。レースははじめから
福士が引っ張り、34キロまでに二位以下を600メートルも引き離す
独走だったが、そのあともろくも失速した。

あと五キロくらいからは、足がもつれ、コースに前のめりに倒れる始末。沿道の声援を支えに気力で走り、スタジアムに入っても三度も倒れた。近来、例のない痛ましい、むごい走りとなった。とても悲壮だが、賞賛すべき根性ものといったことではすまされない。そばにいたコーチは、なぜ棄権を判断しなかったのか、これも奇妙だ。

参戦の時期からして、福士はろくにマラソンを練習していないのに、なぜ参加したのか。報道によれば、昨年末になってからの参戦決意である。素人考えでも、マラソンを十分な準備なしに走るのは、困難であろう。

福士とコーチはマラソンを組し易しと軽くみたのだろうか。北京出場だけなら、一万や五千メートルで、ラクに果たせるのに、なぜマラソンか。福士のランナーとしての次の段階をマラソン転向と計画したとしても、今の時期がタイムリーとは思えない。

福士参戦の発表からのマスコミのめちゃめちゃの盛り上げ方は異常。今朝の新聞にはマラソンレースの予告としては異例の全面カラー広告で福士出場を載せていた。曰く「陸上、最後の衝撃」と詠い、福士の笑顔の写真をバカでかく載せている。放送でもコーチが五キロごとに沿道に顔を出して福士にアドバイスを送る、福士の両親が御堂筋で応援し、スタジアムのスタンドにいてゴールを迎える、、、こうした神出鬼没はテレビや大会関係者の便宜供与で行われたのであろう。

この盛り上げ方の異常さからして、類推すれば、これはあのボクシングの亀兄弟を煽ったのと同じである。つまり、福士の突然の参戦は、テレビ関係者が画策した、「予定されたビッグイベント」つくりのパーフォーマンスではないか。そして、それに乗った福士と状況判断できないコーチが、こんな惨憺たる結末になった。そう思えてならない。テレビは
競技者の明日など考えもしない。視聴率を上げさえすればよい。もう、そろそろ、こんなメディアに乗らないことだ。

長距離ランナーにしては、実に明るく楽しげな福士。その得がたい資質が、こんなことでつぶされないように陸上フアンとして切に願っている。


hukushi


             写真はASAHI,COMから


「この日本で老いる」を読む

第二位の経済大国、第四位の軍事費支出大国、、、いろいろな
顔を持つ日本でお年寄りになることは、どれほど面倒なことが
あるか、幸せな余生を送れるか、、というようなことを医師で
ある大学の教授が、データをあげて説明している。

最後の章は、宗教的な側面から描いている。キリスト教や仏教
に深く帰依した高齢者がやすらかに人生を全うする姿を詳述
している。この章が示しているように、いかに疾病や家族関係
や加齢の孤独から自由であったとしても、最後は内面の悟りと
いうか、精神の充実という領域なしには人生を安らかに
終えるのは難しいこととしている。

老齢による心身の衰退のうち、記憶力の減退について、その原因
や対処の仕方にも詳しく言及していて、興味深い。
記憶障害には、短期と長期がある。ついさきほどのことは、すぐに
忘れるが、遠い昔のことが細部まで覚えているのは、どういうわけ
か。アルツハイマー病型と脳血管障害型の記憶喪失の症状の違い
などは面白かったが、最終的には、若者のような活気ある記憶
というものは望めないらしい。

   京都府立医科大教授、中島健三著 世界思想社刊

「国家の品格」を読む

07年の読書界は、06年にブームになった「国家の品格」を
マネて「何たらの品格」本ラッシュであった。女性の品格やら
親の品格やら、あやかり本が目立った。それ自体が品格を欠く
さもしい迎合の振る舞いである。

さて、ブームのさなかには手を出したくないタチなので、いま
ごろになって200万部以上売れたという元祖「品格」を読んでみ
たが、正直なところ、つまらなかった。なんで、この程度の本
が爆発的に人気を博したのか、そっちの方を考える方がよほど
面白いかもしれない。当時、コイズミやアベさんたちが、いた
ずらに自国中心主義のナショナリズムを煽った、その気分が反
映したのも一因かもしれない。

海外旅行の経験者は二通りの感懐を持つといわれる。「やはり
欧米は素晴らしい。もっと学ぶべきだ」派。「いや、欧米は大した
ことはない。日本古来からのものの方がずっといい」派である。

著者は豊かな海外経験を踏まえて上で、後者の立場にたっている。
欧米人はバラの花を好み、日本人は桜花を愛す。バラは茎にから
みついて落花せず色褪せてみっともない。桜花は清く潔く散る、
澄明である、などという例を挙げている。一事が万事である。
こんな比喩に特別は意味はない。育つ花が地域特性で異なって
いただけで、そこに精神性を見るのは、陳腐な考えである。

あげくに、ありもしない武士道精神なんてものを持ち出して、日本
の文化、伝統に立脚して情緒と形に立ち返らなければならない、と
いうようなことを強調している。日本と日本人のよさを武士道精神
のような幻の精神論を援用して指摘したところで、なにも変わらな
いし、決まらない。

どこの国にも国民にも自国の文化や伝統に誇りを持っているし、
好きな花や嗜好がある。それは他国と比較して、どちらが優劣
かという問題ではない。武士道があれば、騎士道がある。菊花が
あれば、チューリップがある。ウイスキーがあればサケがある。

かつて日本人に広く根づいたことがない武士道精神というような
架空の精神論なんかを持ちださずに、昨今の日本と日本人のだら
しなさや荒廃や停滞を論じて、提言していれば、時宜を得たもの
になっていただろうが、読後感は肩すかしである。

          藤原正彦著 新潮新書

「私は三年間、老人だった」を読む



pat





アメリカ人の若くて美しい大学院生兼デザイン会社員の女性、パット・ムーアは26歳のとき、ふとひらめいて、85歳の老人になることを思いつく。

人を驚かせたり、エンタメのためではない。専門に研究しているのは工業デザイン。パットは工業デザインは工業と芸術の間にあって商品開発をしなければならない。お年寄りが使いやすい、お年寄りに役に立つデザインとは、どういうものか。「本物の」老人のライフスタイルとはどんなものか、それは老人になってみないと分からないのではないか。しかし、何十年後かに老人になるまで待つわけにいかない。遅すぎる。

パットはテレビのメイクアップ・アーチストの協力を得て、白髪、顔のしわ、カラスの足跡、瞼のたるみ、首筋まで独特のラテックスの乳液でマスクをかぶったような上に化粧、胸を押さえる腹巻、足には包帯をまいて靴下をはき、手袋をする。きれい過ぎる瞳にはオリーブオイルをさしてしょぼくれた眼にした。目立つきれいな歯は黄ばみ黒ずんだ色に。腰にコブをつくり、杖をついて、、、。

誰からも、親しい友人からも見抜かれない老人に変装して、三年間、全米14洲116都市とカナダで実験した。老人になりきって、街を歩き、買い物をして、公園で他人と話をし、会合に出て議論の場に入る。その三年間の稀有な体験を本にしてある。

ある文房具屋の店員の応対の例では、老人の姿で買い物すると、店員は邪険に面倒くさそうにするが、26歳の本来の姿で、まったく同じ買い物をすると、店員は実に親切でよくしゃべり、扉まで送ってくれた。ある店の店員は、もたもたと大きめの額面の紙幣を出したら、お釣りをゴマかした。お年寄りでも「貧しい」お年寄りには、世間の見る目が格別冷たい。

お年寄りは「価値がなく、必要とされず、大切な存在ではない」と世間から想われているし、老人のなかにはそう想っているものものいるが、
パットは考える。「明日の自分のためにできること」を。

     パット・ムーア著、木村治美訳 朝日出版

[不愉快な男たち」を読む

「私がアタマにきた68のホントの話」(講談社)という副題。
辛口で知られる人材育成会社経営で評論家、辛淑玉
(シン・スゴ)の本である。

男優先主義、男性中心主義の社会、会社で男どもが
いかに無能なクセに威張り腐っているか。

女性蔑視、女子ども視する立場から、社内外での際
限のないセクハラ、セックス暴力をする男どもを、
実例をあげて、コッパ微塵に粉砕、糾弾する。

強姦の男性に甘い警察、裁判所。被害者なのに
落ち度を攻められる女性。差別を差別と感じて
いない子ども大人の男性たち。

歯切れにいいタッチ。舌鋒鋭い。「ふざけるな」
「よくもま、これほど低脳な男たちがいるものだ」。
セクハラが懲りない男どものペニスをちょんぎって
しまえ、と言っている。

うーん。

「火宅の人」と「檀」を読む

檀一雄の「火宅の人」(新潮・現代文学全集)は昭和50年に完結した私小説。作家自身の分身と見られる小説家の怒涛の放埓人生記。酒と女と原稿書きに狂奔するさまを虚実入り混じって、つまり、どこからどこまでが本当やら、創作やらと延々と書いている。

家に体の不自由な息子を含む五人の父親だが、別宅をあちこちに構え、
かつ新劇女優ほか、さまざまな女と情痴の限りを尽くす。常識的には
父親、夫、世帯主失格は当然ながら、その泥沼の淵で生きることと死ぬことの人間の寂莫を描いている。

一方、この破廉恥、無頼作家を妻は、どう見ていたのか。そこを描いたのが沢木耕太郎の「檀」(新潮社)。妻を語り部にして、会話のような文体で、夫である作家の言動や狂態をつぶさに書く。気丈な奥さんらしく
陰々滅々なところがないのが救われる。モデル小説への興味もある。

こういうモノを二冊あわせて読むと、家族とは、結婚とは、人間とは
男女の仲とは、などという根源的な関係について考えさせられるものの
、しかし、こういった関係にはこれぞという正解はないもんだ。そのことがよく分かる。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる