映画「トゥル―・グリット」

truegrit_2.jpg

五輪のさなか、ひどい夏バテになり、体調絶不調。こうなると、五輪はもちろん、昨今のオスプレイ配備や消費税論議もタイガースの連敗続きなど、当面の話題にもまったく関心がなくなった。そのうえ、好きなビールも本も新聞を読むことさえ、興味を失った。若いころと違って、一点悪化すると、大仰に言えば、知的関心も感性も総崩れ状態になることが、改めてよくわかった。(苦笑)

さて、ややもち直して、レンタルDVDでアメリカ映画の西部劇『トゥル―・グリット』(2010年)をひっくり返って見た。これが実に面白かった。

牧場主の父が旅先で連れの雇い人に殺される。母は幼い弟妹を抱えて動けない。14才の長女、マティ(ヘイリー・スタインフォルド)が現地に乗りこんで、父の遺体の埋葬準備や債権をテキパキ処理、遺品をしっかり国元は送る手はずを進める。速射砲のような早口で交渉相手の大人を説得してゆく手際が素晴らしく、可愛い。

そして、乗りこんできた一番の目的、逃亡した父の敵討ちを加勢してくれる連邦保安官を雇うこと、、、、、ここまでトントン拍子に見ていて、やっと、この映画は以前見たことがあるジョン・ウエイン主演の『勇気ある追跡』(1969年、ヘンリー・ハサウエイ監督、この作品でジョン・ウエインはアカデミー主演男優賞)と同じだと気がついた。つまり、リメ-ク版でした。

yonew151.jpg


ちなみに『勇気ある追跡』は邦題であって、原作題はやはり『トゥル―・グリット』だった。原題の意味は、「正真正銘の勇者」である。邦画でもリメーク版が多く、『青い山脈』(古いな)や『忠臣蔵』なんか代表であろう。

今度の作品は、あの異色の兄弟監督、ジョエル・コ―エンとイ―サン・コーエン。この二人は先に『ノ―・カントり―』を作ってアカデミー作品賞を得ている。西部の素晴らしい山河を遠景、近景に生かして、血なまぐさい対決劇を
抒情あふれる映画にした。

ストーリーの大筋は前回と変わらないので、結末をばらすも、ばらさないもないけれど、なんといっても一番の見どころは、マティ役の少女の大人顔まけの行動力、矢継ぎ早な智恵と機転のすごさ。あとで調べると、へイリ―・スタインフェルドは、実際には13才で、この映画でアカデミー賞助演女優賞候補にノミネートされている。

sub5_large.jpg


時代劇にも西部劇にも復讐譚が多い。クライマックスの設定が簡単。探し当てた宿敵と、いよいよお互いの命を賭けた対決シーンへなだれこんで行くところがミソだ。ここでは人倫の反する、報復の連鎖だなどというのは、ヤボで、お話のでき具合を楽しめばいいだけだ。復讐物語は古今東西どこにもあり、動物同士が仇討したという話は聞いたことがないので、これは人類に根ざした闇の本性かもしれない。ブッシュだって、3・11の復讐にイラク崩壊を図ったじゃないのと、仇討の普遍性を援用するまでもない。

愛らしいヘイリー・スタインフェルドは、いずれエリザベス・テイラーやジョディ・フォスターのような大女優に成長してほしい。『フラガ―ル』で売りだし、大女優の道を歩む蒼井優とどこか似ている。

b06b2_298_truegrit8.jpg

imagesCA0LZOZQ.jpg



(写真はすべてGoogle)

雨のしのびあい

昔映画少年だったので、ナツメロならぬナツDVDをよく見る。

b

(↑ 写真はGoogle ↓)

a


今回はジャンヌ・モローとジャン・ポール・ベルモンドの『雨のしのびあい』(1960)を見る。原題は『モデラート・カンタビレー』。だが、当時は原題とはぜんぜん関係ない、あるいはフィーリングのみにこだわった邦題を勝手につけていた。そういうのも懐かしい。ずいぶん的ハズレの邦題もあったが、いまはなんの工夫もなく、原題のカタカナ表記のままが多い。

『雨のしのびあい』は金持ちの退屈妻と格下の工員との7日間の恋物語。ジャンヌは工場長の夫とお屋敷に住む子持ちの母、ジャンはその工場で働く工員という役柄。ジャンヌ・モローは『現ナマに手を出すな』『死刑台のエレベーター』などで、ジャン・ポール・ベルモンドは「勝手にしゃがれ』」で時代のトップランナーになったフランス映画の芸達者コンビ。

ジャンヌは、倦怠感に満ちた金髪の美貌がウリ。ピアノを習うこどもを教師宅に連れて行き、そのあと子どもと散歩するのが唯一の仕事、実業に明け暮れる亭主に愛想づかししている日々。そのピアノレッスンを受けているとき、鋭い女性の悲鳴を聞き、現場のカフェを覗くと、殺害した女を抱きしめる殺人犯を見る。警官に促されるまで
死んだ女から離れない男を目の当たりにみて、ジャンヌの心が揺れる。「あんなふうに愛される女性もいるのだ!!」

激しいショックを受けたところにジャン・ポール・ベルモンドが、殺人事件の裏事情を話して聴かせるという立場でジャンヌの心に入り込み、つかの間の恋が始まるーー。7日間後にジャンは退職して街を去る。残るはジャンヌの悲痛な悲鳴。あの殺された時の女のような悲鳴。

白黒映画。『第三の男』そっくりの黒と白の陰影が際立つ映像。顔の表情をアップした長いカット、寒々とした並木や石垣、海の色。ずっと流れるモデラート・カンタビレーの音楽。ゆっくりと、劇的なシーンは一つもない展開。世の中の片隅で燃える女と男の素顔のかけら。フランス映画は、こんなふうに人生にありがちな出来事を淡々と映した映画が多かったなとつくづく懐かしかった。

余談ながら、レンタルDVD屋さんは、過当競争らしく、こういう映画を100円で見せてくれる。それにしてもレンタル屋さんには往年の名画をつぎつぎ制作したフランス、イタリア映画の在庫が少ない。映画の世界はハリウッドが席巻して、そして力をなくした。

この自由な世界で


kilstone

 
イギリス映画。33歳のシングル・マザーが主役。11歳の一人息子を両親に預けて働く。セクハラに文句をつけたら、人材派遣会社を首になる。これを機に友人と二人で勝手知った派遣会社を起こすところから始まる。

金髪、美貌を武器にバイクで走り回り、移民を日雇い仕事に送り込む会社。順調にゆくが、もっと大きな会社にするべく模索中に、不法移民を斡旋、ピンハネする方が儲かることに知り、汚い不法手段に手をだす泥沼に落ち込む。

不渡り手形をつかまされたり、賃金不払いで労働者に包囲されたり、行きずりに殴り倒されたり、やがては息子を拉致した覆面強盗に諭される。「お前の息子は俺たちの息子よりも偉いのか。俺たちは使い捨てされてもいいのか」。

恐怖のあまり失禁するほど手痛いダメージを受ける。昔かたぎの父から叱咤される。息子とのいさかい、パートナーから愛想づかしされる。ストレス解消に一夜の男を求める。いろいろな苦難や失意を越えて、なおシングルマザーは大きく儲けるために不法移民の労働力を求めてウクライナへ飛ぶ。

英国は移民の国。移民なしには経済活動が回らないのに、移民を軽視し、人間扱いしない。先進資本主義国の偽善性を、このシングルマザーは知らず知らずに代弁している。タイトル「この自由な世界で」で行われている非人間的な経済社会の問題を、一級の興味深い物語にして、見ごたえがある。

 監督は『麦の穂をゆらす風』で知られるケン・ローチ。女優キルストン・ウエアリングがいい。こういう社会構造に根ざした矛盾や問題を説教臭くなく、面白く仕立てて見終わったあとにじっくり考えさせるようなタイプの邦画が最近はすくないな。

インツゥー ザ ワイルド

into2


ビデオで見る。アメリカ映画の世界では、きわめて良識のある俳優のショーン・ペンの製作、監督。本はエベレスト大量遭難のドクメントで知られる作家、ジョン・クラカワー。本の題は忘れたが、印象深いいいい本だった著者の作品、邦題にすれば「荒野へ」ということになろうか。

話は簡単。地方大学を優秀な成績で卒業、ハーバート・ロースクールへの進学も可能と太鼓判を押される22歳の若者が、貯金も身分証明書も破棄して、馬鹿でかいリュックを背にバックパッカーの旅に出る。めざすは大自然が手付かずで残るアラスカ。辺境に遺棄されたバスの廃車のなかで自給自足の暮らしを送り、ある日、毒性の強い植物を食べたために悲惨な衰弱死するまでの物語。

彼の旅に出る決意は、フラッシュバックで織り込まれるが、NASA出身で、エリート意識と権力欲が強く、不品行の父、その父と喧嘩の堪えない母、嵐がふく家庭で萎縮する妹、、、。ようするに世俗の打算や虚栄、みせかけの豊かさ、、、に嫌気をさした。

かくして22歳は世俗的な成功よりも裸一貫、自然のなかでカで生きる道を選ぶ。ヒッチハイク、貨物列車のタタ乗り、生活費稼ぎの短期バイトを重ねながら、22歳が体験する世間、彼が目を奪われる大自然を共に味わえる。この旅の途中に出会う人たち、山河が素晴らしい。

into1

アメリカには西部開拓のパイオニア精神があった。その影は潜めたが、かつてのヒッピーのように物質文明や功利主義の愛想づかしして現実逃避を試みる若者がまだいるのだ。精神の自由を求めて
人跡未踏のような辺境を訪れる若者がいること、そしてヘラジカやヒグマが棲む
広大な自然に包まれる余地がまだあるのだ。

ガム

最近、よくガムを噛む。カルシュウム含有とかで虫歯予防にもなるという効用をうたっているガムを噛む。本を読んだり、ものを書いたりするときも、ついついガムを噛む。いくらか集中力がつくような気がしている。つまり、ガム愛好家になったのだ。

新春のウイーンフィルハーモーニーの本場の演奏会をTVで見ていたら、観客席でガムをむしゃむしゃ噛む西洋オバサンたちが結構いた。格調高い交響楽団の格式ある音楽の殿堂でも、いまやガムを噛みながら名曲鑑賞する連中がすくなくないのだ。

そう思っていたら、イスラエルのハマスへの軍事行動を審議する国連安保理の会議のTVニュースを見てたら、代表たちの後方で待機する職員もしくは随員女性が、ガムを噛んでいた。世界の平和を安全を討議する場で、けっこう、くつろいでというか、ガムを牛のように噛んでいるのだ。

臆面もなくガムを噛んでいるのは講義中の学生たち。目は机下のケータイ、口にガム。注意をうけても
素知らぬ顔で再びガムを噛みだす。イタチごっこである。販売促進会議や次年度の事業活動を討議する会社の会議でガムを噛むヤツは、まだいない。

プロ野球の選手はガムが好きだ。洋の東西を問わず選手たちは噛んでいる、これには緊張緩和と集中力をつけるからだと理由づけされているし、力いっぱいのバットスイングなどのときには口内に力を緩衝する働きがあって、いいのだという理屈もあるようだ。

昔といっても戦後まもなくのことだが、おそらく日本におおぴっらにガムを持ち込んだのは米軍の兵士たちだろう。かれらGIはいつもジープの上でも歩いていてもガムを噛んでいた。どういう効用から米国政府はGIたちに、あんなにガムを噛ませていたのだろう。歩きながらモノを食す習慣がなかった日本では、当初ガム噛みは顰蹙を買った。しかし、その半面、なにも甘味がなかったころだから、あの短い時間とはいえ、口内の広がる強烈な甘さはこたえられなかった。筆者などは、子どものころにハーシーの名前を覚え、いまも忘れられない。

ところで、スポーツ選手といっても、力士やサッカーやバスケやテニスの選手がガムを噛んでゲームをやっている姿はみない。こうしたゲームにも緊張や不安解消の手立てが必要とおもわれるが、噛まない。このことからすると、ガム噛みは動きが激しいスポーツには向かないのだろう。ノドを詰める危険の方は強いかもしれない。

ガムを噛むような口をもごもご動かすのは、食べるため、あるいは咀嚼するため欠かせない天賦の運動であるが、なぜか作法やマナーの世界では、これをみっとない、はしたない、行儀が悪いとする見方が有力である。これも古今東西同じような見方である。

排泄とか性交とか睡眠とか食欲とか、そういう本能がむき出しのままの行動を人の前にさらすのは、マナー違反、行儀作法がなっていないと見るわけだ。だから人目から隠蔽する作法や人目にあってもよい範囲とされる文化が生まれるのだろう。ガム噛みというは本能の要請ではないが、これほど人の口内に根を張ってきたのには、もっと、もっともらしい理由がある気がしてならない。

ウイーンフィルならダメで、サザンオールスターならOKか、大学の講義ならOKで、安保理ならダメか。
そもそも同梱状態になる口内を使うディナーやレストランでは両立しないが、冠婚葬祭では、どうなんだろう。ガムを噛むTPOは揺れている。

ガム愛好家になってしまったので、ここはひとつ、権威ある世界のガム研究者(という人がいるとしたら)のご高説が待たれるところである。

「ミス・ポター」を観る


reni



あの世界的に愛されているウサギ、ピーター・ラビットの生みの親、ビアトリクス・ポターの伝記。まだ名門の女性は親が決めた縁談に従い、外で働くことなんか、忌まわしいこととされていた20世紀初めのイギリスで、因習に逆らい、ポターは絵本つくりに目覚める。

こどものころから遊んだ湖水地方の田園での体験や夢をみたことをウサギに託して絵筆をふるう。出版社に持ち込んでも相手にされない。名門のお嬢さんということで、まあ10部も出ればいいところさ、と出版社はお義理で製本を請合う。軽くあしらわれていることは、編集経験ゼロの男性を担当者にあてがわれたことで、ポターも気がつく。

ところが、そこから意外や意外な展開となる。ピーター・ラビットの小さな挿絵付きの絵本はベストセラーとなり、ポターは売れっ子の作家に。しかも編集者と恋に陥る。有頂天と幸せを一度に手にいれたポターに水を浴びせる事態が起きて、失意の彼女は稼いだ資金を元に田舎に引っ込み作家活動を続ける一方、開発にさらされる田園を買い取り、国に寄付する。ナショナル・トラスト化された土地は4000エーカーに上るという。

美しいイギリスの田園風景や古いロンドンの町並み、ポター役のレニー・ゼルウイガーの愛らしさがあいまって、楽しめる。画面にポターの描くウサギなどの絵がアニメ化されて動くのも面白い演出。ピーター・ラビットの背後にこんな作者と物語があったのか。

監督 クリス・ヌーマン   ビデオ版

映画「ドライビング・ミス・デイジー」を観る


dr


元教師の八十過ぎた白人女性と黒人おかかえ運転手の交流物語。成功した息子がいて、豪邸に住み、黒人のお手伝い女性のかしずかれる女性が、ある日、ドライブに出掛けようとしてギアを間違え車を転落させてしまう。

心配した息子が、給料を息子持ちで黒人の中年男性の運転手を雇い、女性の元に送り込む。誇り高kく、人種差別意識を持っているが、元教師だから、その点は隠している女性と運転手の間で、さまざまな差別、侮蔑、誤解、思い込みなどの行き違いが生まれる。そのひとつがドラマの筋に。

やがて十数年経過。いまや老人ホームにいる女性を息子と元運転手が訪れる。息子にあっちに行けと、席を外させて、運転手の手を握って放さない女性、オヤツの時間に運転手の差し出すスプーンからおいしそうにケーキを食べる女性。

あんまりむずかしいことを言わず、叫ばず、人間同志の付き合いを重ねれば、しだいに肌色を越えて人間関係が築けるという物語。この手の物語は、たいてい優位に立つ側が、劣位にある側の辛抱強い忍耐と寛容にほだされて、差別意識から解放されてゆくパターンが多い。差別される側は二重、三重に負担を背負うのである。黒人側にすれば、理不尽な話で、なんでこんな目にあうのや、という気持があるだろうな。これは白人の側の思いあがりの視点で映画が作られる陥穽である。差別の解消は、恩恵とか慈善ではないのだ。

とはいえ、じわじわと心を打つ小味な作品である。1986年のアカデミー作品賞受賞作品。主役、ジェシカ・タンディは主演女優賞を取った。運転手のモーガン・フリーマンがいい味を出している。
監督ブルース・ベルフォード ビデオ版

「エディット・ピアフ 愛の賛歌」を観る


edi



「バラ色の人生」、「バタン・バタン」、「愛の賛歌」などの歌を知らない人はいない。私の若いころはシャンソンが歌の世界で大きな位置を占めていて、ふだんもよく聞いた。シャンソン歌手を名乗る歌手が日本にも多く居た。いまはアメリカンポップスが全盛。そういえば、フランス映画も元気がないな。

この映画は、シャンソンの世界で一世を風靡したピアフの苦闘の伝記。どういうわけか一代の成功者というのは、豊かな恵まれた家庭の坊ちゃん、嬢ちゃんからは育つことは稀。

ピアフもどん底の貧窮の育ち。路上で歌い投げ銭をもらう母、一時は娼婦宅に預けられ、その後引き取った父は大道芸人。食うや食わずの境遇ながら、歌がうまく母とおなじように、しがない町の歌うたい。

ところが、これも成功者譚によくある話だが、巴里きっての劇場のオーナーが偶然、耳にしてピアフの歌唱力に驚嘆、メジャーデビューの道を開いてくれる。とんとん拍子にスター街道。アメリカ巡業も大成功、世界の歌手に。

妻子持ちの世界的ボクサーとの恋。滞在中のアメリカで、ボクサーの帰国を待ちわびて夢かうつつ、忘我の境地。ああ、戻ってきた。飛び上がる歓喜。彼に贈る時計を探して見つからず、いらだって付き人に八つ当たりしているところにマネジャーの声。「(彼の乗った)飛行機が墜落した」。

悲しみで狂乱のピアフ、廊下をふらついて歩く。カメラは哀しむピアフを前から背後から写し、ピアフの歩くままを追う。廊下の先が舞台に変わり、大きなカーテンが開くと満員の聴衆。湧き上がるような「愛の賛歌」の絶唱。いかにも映画的な手法で盛り上げる場面は感動的だった。

薬物中毒で横たわるピアフ。フラッシュバックで半生の思い出と今がめまぐるしく織り込まれて、ややこしいが、深い映像で興味深い。

ピアフを演じたのは、フランスのマリオン・マティヤール。昨年、この映画でアカデミー賞主演女優賞。監督、オリヴィア・ダアン   ビデオ版

(それにしても一昨年のアカデミー主演男優賞は、「レイ」で盲目の歌手、レイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスだった。映画の題材が、こうゆう伝記を好んで取り上げるのは、いいことか、どうか。オリジナルないい本がないということなのかな。もう一つ、ピアフとは「すずめ」のこと、こちらにも、「ひばり」という歌姫がいた。歌い手の名前は東西似たようなネーミングになるものだ。日本人の感性なら、囀るすずめに歌い手を連想しないのでないかなと思ったり)

[パヒューム ある人殺しの物語]を観る

p



こわい映画である。18世紀の巴里は世界一、活気と悪臭の街だった。家にトイレがないころだったので、みんな窓からし尿を投げ捨てた。その悪臭を嫌って、巴里には稀な香水文化が栄えた。そうした背景を踏まえた連続殺人事件。

主人公は魚市場で生まれ、直後に作業婦の母に捨てられる。見咎めた人の通報で母は捕まり処刑
される。赤子は孤児院で育てられ、少年になるや、業つく院長によって皮なめし工場に売られる。数奇
な運命の子は、青年になるや独特の嗅覚があることがわかる。

遠くのもの、人が気がつかないものをかぎ分ける感覚が異常に優れている。あるとき、工場主
の商売について巴里の街へ。見たこともない光と繁栄、かぐわしい香りの充満、、、。そのなかで
柑橘類売りの若い娘が通りかかり、青年は取り憑かれたように尾行する。すぐ背後で娘の髪の毛
の香りをかいでいるとき、ふり返った娘の驚き。通りかかった人の気配から、娘の口を長く塞いだ
ため、気づくと娘は窒息死していた。娘の肌を存分にかいで、青年は娘がかもし出す、えもいわれぬ
香りに心奪われる。

一方で、街の香水調合師を驚嘆させるいい香りの香水を作る能力を認められて、工場主から
買い取られ、念願の香水師になる。青年は次々と流行の香水を生み出して、金満の紳士淑女が
押しかける繁盛ぶり。しかし、青年は満足しなかった。これまでにない、世界でも稀な素晴らしい
香水を作り出したい。こうして青年の関心は若い娘の髪の毛、肌のかぐわしさを求めて、、、。
奇怪な殺人事件が頻発してゆく。

出だしから絵画的な映像、ナレーション付きの静止画で次々とテンポよく物語を進めていく。まるで
紙芝居を見てるような導入から展開するのが面白い。ダスティン・ホフマンがちんけな香水調合師
になっている。配役の妙に笑った。怖いけれど、舞台劇のようにキレイな映画である。

                                          ビデオ版

「ラヴェンダーの咲く庭で」を観る


ravenn


イギリスが誇る名女優ふたりが姉妹役で共演、人生のたそがれ時に
生きる女の微妙な感情をこまやかに見せてくれる佳作です。ジュデイ・
デンチとマギー・スミス。舞い込んできた一人の才能溢れる青年をめ
ぐって、恋愛感情、母性愛、人間愛のさやあてが興味ふかい。

第二次世界大戦が始まる直前のころ、イギリスの海岸べりの館に
お手伝いさんを含めて三人の老女が暮らす。手入れが行き届いた
芝の庭、そこから海を眺め、気が向くと階段つたいに海辺に下りら
れる瀟洒な環境。

嵐があった朝、ふと海岸を見ると、死体が一つ。恐る恐る近づいて
調べれると、漂着した外国人の青年で、失神しているが、息はある。
館の運びこみ、医師を呼び、親切にも介抱を続けて結果、青年は
しだいに元気を回復、ポーランド人の青年と判明、姉妹は若々しい
青年の英語を教えるかたわら、交互に世話を焼く。世話焼きの競争
みたいなる。

あるとき、ヴァイオリンを持った男性が訪れ、青年を慰めるが、お返しに
青年がヴァイオリンを演奏すると、これが見事に上手、天才的なヴァイオ
リン演奏者とわかる。村の人々も驚嘆する。これを姉妹に興味を抱く老
男性医師が、嫉妬して警察に不法滞在の外国人として密告したころから
話が大きく展開してゆく。

大きな舞台で華やかにデビューする青年、手がとどかない世界へ伸びて
行く青年、その後ろ姿をじっと見つめ、やがて無言できびすを返す老姉妹、
、、、。どうにもならない若さと老いと、哀切がこもるラストでした。

         監督、チャールズ・ダンス    DVD版

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる