拉致被害家族

アメリカ政府が北朝鮮をテロ支援国家から指定解除へ動き出した。
まあ、事実上日本政府の頭越しである。米中関係の正常化のときといい、ドル・ショックといい、日米関係は緊密な同盟関係などと常日ごろ言っていても、いざというときには日本は置いてぼりされる。

これまで北朝鮮は米国務省に名指しで「ならず者国家」と言われ、テロ支援国家のリストにあげられている。米国の国益による判断だが、日本政府はこの判断を尊重しているというか、追随している。
非道な国の非道な拉致は断じて許せない。これが拉致被害家族の痛切な思いであるが、非道な国
という枠組みは外されようとしている。

アメリカにすれば北朝鮮という国は、冷戦下では対立軸、朝鮮戦争では流血で戦った敵国、以後数々の不法、テロ行為を重ねたあげく、公然と核開発に手を染めてからは核保有国、アメリカの眼の上のタンコブ、国威を愚弄する面倒な国家とみている。

六カ国協議は、この北朝鮮の核開発を阻止、非核化を探るための国際会議。日本政府が持ち出した拉致問題は従って本来の議題にはない。拉致家族の人々にとっては気の毒なことながら、もともと検討課題でなはなかった。日本政府は拉致問題も検討されているかのようなポーズを取ってきたが、これは国民を裏切るまやかしである。拉致者四百人以上と言われる韓国はそのことを承知しているため、拉致問題を協議に持ち込んでいない。

アメリカ政府は、過去に起きた非人道問題の収拾よりも、核開発を進める北朝鮮がもたらす将来への懸念を断ち切るために事を急いだ。しかし、北朝鮮が今回の約束を実質的に履行するかどうか、保証はない。北朝鮮は、クリントン政権時に組織したKEDO(朝鮮半島エネルギー問題機構)と同様、今回も骨抜きにするかもしれない。

アメリカはブッシュ政権末期の得点稼ぎ、北朝鮮はキム・ジョンイル独裁の延命策。この二つの大きな戦略の渦から日本の拉致問題ははじき出された。拉致問題を解決するため日本政府は六カ国協議の場以外に独自の外交窓口をつくるべきだったのに、その戦略がなかった。とくにアベ投げ出し首相が打ち出した対北強硬策はまったく解決を迫るどころか、解決の道を閉ざすやり方だった。とにもかくにもキム・ジョンイルがコイズミさんに「お詫び」をしているのだから、深追いすれば居直るのは当然の人間心理である。

問題を解決するのが政治家の仕事なのに、問題をこじらせて解決困難にしたうえ、居丈高になるだけでは、児戯に等しい。先の日朝実務者会議で北朝鮮が「拉致問題の再調査」を日本側に約束したが、これとてもアメリカが北朝鮮と手を打つ前に北朝鮮に譲歩を促した成果と見られる。日本政府はポーズのみ、なにも得点をあげていないのである。拉致被害家族の深い失望、政府不信はきわまれるのも止む得ない。

ダルビュッシュ

日本ハムの豪腕ピッチャー、ダルビュッシュ選手が、一勝あげるたびに生育地の大阪府羽曳野市に10万円を寄付、すでに今期7勝目なので70万円になったという話が毎日新聞地方版に載っていた。

市では大喜びでダルビュッシュ基金を作り、福祉や障害者支援の一助に生かしたいという意向。こういういい話は地方版ではなくて、全国区で報道されるとよい。社会面でなくても、記録ばかりのスポーツ面のコラムでもいいのだ。編集者の意識が鈍いね。

なにより、大金を稼いでいるタレントやスポーツ選手などに刺激になる。海外からは、こうした善意や社会奉仕をする著名人の話がよく伝えられる。日本では珍しい。阪神の赤星選手が盗塁成功数だけクルマ椅子を施設に寄付しているのが有名な程度だ。金本選手もなにかやっていると聴いたことがある。

有名人は、有名税が煩わしいこともあるだろうが、有名人ゆえに一挙手一投足が伝えられるので
いいことを行えば、とても大きなアナウンス効果がある。つまり率先垂範の効用である。とくに青少年にとって、憧れの人が社会のために貢献することは、いいお手本になる。フアンあっての職業。その特性を生かして、他の人たちもちょっといいことをしてもらいたいね。

赤星はエライが、ダルビュッシュも若いのに、エライ。

国家政権転覆容疑

なんとも大仰な罪名である。
まるで革命かクーデターでも勃発したのか。
報道によると、中国の公安当局が、四川省での地震で多くの学校がもろくも崩壊したのは、手抜き建築があったからではないかと批判した大学教員を身柄拘束した容疑である。要するに政府批判を許さぬという強権の発動であるようだ。

この教員は、インタネットで次のような意見表明を三度ばかりした。崩壊した学校の多くは中国政府がかかわる工事であって、香港の会社が受注して建てた学校は崩壊しなかった。政府サイドのは骨抜きであり、すぐに崩れるような「おから工事」をした責任を問うというもの。

このおから工事のウラに利権が介在した可能性の示唆や、香港との優劣論議が公安当局を刺激したのでなないかと思われるが、それにしても、このような容疑で逮捕するほどのことか。おそらく罪名からして、罪刑も相当重いもの、死刑や終身刑fがあってもおかしくないような罪である。はやりの言葉でいえば、みせしめを含意した「国策捜査」そのもののようである。

北京五輪を前に政府にとって耳の痛いことは一切合財撲滅して、「明るく安全な社会」という地ならししておきたいと熱くなっているのだろうが、先進諸国ではこの程度の言説で逮捕されるとは耐えられない。一党独裁国家の後進性に驚く。日本でも敗戦まで悪名高い治安維持法などがあって、中国の現状を決して笑えない現実があった。自由な言論がまったく保障されなかったし、いまも言論への抑圧がなくはないが、その日本レベルからしても、中国のやり方は半世紀遅れている。

中国の目ざましい経済成長や近代化は喜ばしい。個人的には反中感情を全然もってないが、一党独裁を正当化する国家体制から生じる矛盾をはやく克服してほしいものだ。自壊を恐れる「国策捜査」のような網でいつまで締め付けていられるのか。

中国は政治の民主化をなんとか、国際社会のレベルに改変しなければ、いい友人なんだが、どこか腹を割って話せない友人の域を越えにくい感じが否めない。五輪開催が盛大に開放的な成功に終わるほどに中国はいっそう大きなジレンマを抱えこむに違いない。

裁判員制度

本職の判事のほかに一般市民が裁判に参加して、法律違反の事例について正邪の意見を述べる機会が与えられる制度が来年から発足する。

判事の仕事は、罪状の黒白と情状を判断する。ときには人の生命を奪ったり、一時的にせよ社会的な存在を断罪する重大な仕事である。資格を得るのに難関の国家試験があるきわめて専門性の高い仕事である。そんな専門家の仕事に素人の判断がなぜ必要なのか、そこがわからない。

専門性の高い重要な仕事は、たとえば医師、弁護士、会計士、飛行機操縦士や固有の生産物を生出す多くの職人など世の中にはいくらでもあるが、その判断の元に素人の判断が入る余地がないし、判断を求める制度もない。医療におけるインフォームドコンセプトとワケが違う。みんな自分の仕事に誇りと責任を持って遂行し、あわせて社会からそれなりの信頼や尊敬を得ている。逆に失態があると、強い批判にさらされ、信用を失う。


このことから考えると、裁判員制度というのは、判事が責任ある判断ができないか、判断する能力に欠けることが多いので、衆議を諮るということなのだろう。判事のみでは責任が持てないので、「みんなで渡ろう」というわけか。つまり、現行の判事職たちは、他人の意見に耳を傾けなければ、判断が出来ない集団なのだ。放置すれば、正当ないし妥当な判断が出来ない制度であるということだ。どうやら、そう国は認めたようだ。少なくとも、逆に失態があると、強い批判にさらされ、信用を失う仕組みに乏しい。とんでもない非常識判決を出す判事がいるが、非常識のゆえに責任を取らされた話をきかない。だから三審制だと思っていたが、そのほかに判事の資質や裁判制度に問題があるということのようだ。、

多角的、多方面からの意見を聴取して判断するというのは、いっけん民主主義的な公開性や透明性を備えているようであるが、実際には行司だけでは勝敗のをジャッジに完璧を期待できないので、判定にビデオの力も借りたいということと似ているのか。

だいたい刑事事件の判決文なんか、ほとんど前例踏襲、「思慮に欠ける自己中心的な犯行で、、、」と文例集から抜き書きしたようなマンネリで、しかも時代の風潮におもねり、行政の意向に与して、自主自立した判断がすくないのが現状である。もはや司法の独立性を信じている人は少ない。

判事の専門的能力の低下に伴い、国民が自己の生活の不便を強いられてまで参加を強要されるのは、厄介な話である。判事を含む公務員諸氏を養うために精励している国民は、二重の意味で面倒にかかわることになる。

裁判員制度よりも、現行の国家試験のあり方、判事の社会的能力開発といった問題、たとえば任官年齢35歳以上にするとか、一定の社会的経験を有することが条件とか、公開前に判決文を内々に提示して、その妥当性を吟味する司法組織の内部精査制度など創る方が先決である。

「ミス・ポター」を観る


reni



あの世界的に愛されているウサギ、ピーター・ラビットの生みの親、ビアトリクス・ポターの伝記。まだ名門の女性は親が決めた縁談に従い、外で働くことなんか、忌まわしいこととされていた20世紀初めのイギリスで、因習に逆らい、ポターは絵本つくりに目覚める。

こどものころから遊んだ湖水地方の田園での体験や夢をみたことをウサギに託して絵筆をふるう。出版社に持ち込んでも相手にされない。名門のお嬢さんということで、まあ10部も出ればいいところさ、と出版社はお義理で製本を請合う。軽くあしらわれていることは、編集経験ゼロの男性を担当者にあてがわれたことで、ポターも気がつく。

ところが、そこから意外や意外な展開となる。ピーター・ラビットの小さな挿絵付きの絵本はベストセラーとなり、ポターは売れっ子の作家に。しかも編集者と恋に陥る。有頂天と幸せを一度に手にいれたポターに水を浴びせる事態が起きて、失意の彼女は稼いだ資金を元に田舎に引っ込み作家活動を続ける一方、開発にさらされる田園を買い取り、国に寄付する。ナショナル・トラスト化された土地は4000エーカーに上るという。

美しいイギリスの田園風景や古いロンドンの町並み、ポター役のレニー・ゼルウイガーの愛らしさがあいまって、楽しめる。画面にポターの描くウサギなどの絵がアニメ化されて動くのも面白い演出。ピーター・ラビットの背後にこんな作者と物語があったのか。

監督 クリス・ヌーマン   ビデオ版

水着

水泳の世界で、どの水着を着て泳ぐかが大きな話題になっている。
イギリスのスピード社製の水着だと、新記録が続出しているからだ。

むかし棒高跳は竹を利用していたが、グラスファイバー製の棒を使う
と飛距離がいちだんと伸びた。議論があったが、結局、一般に採用
された。野球やゴルフのボールなんか常に改良されている。あらゆる
スポーツの靴などは、改良に改良を加えつづけていると言ってよい。

こうした機器の使用によって、スポーツ能力を伸ばすのは、いんちき
である面が強い。ほんらいの人間の最大限の能力の競いあいには
不純な要素が入りこむからであるが、裸でやらない限り、そうはいっ
ても時代が追及した科学の成果からまっく距離を置くこともできない。

水泳などスピードを競う争いは百分の一秒単位の争いで順位が決まる
から、ほんのわずかな水着の差異で記録が違ってくるが、水着自体に
スピード性や浮力や人の運動力をサポートする性能があるとすれば、
それは人間力の争いというよりは、水着の争いである。

問題をややこしくしているのは、すべてビジネスや名誉や威信が、水着
問題の背後にあるからだ。メダリストとそうでない者は、その競技世界
で生涯受ける利益が違う。企業の景況や競技連盟の威信や名誉も
違ってくる。

日本の水連はいまのところ三種の企業の水着を公認してきた。三種を優遇
しているからには、おそらくしかるべきものが水連に寄付されているにちがい
ない。互恵の関係であろう。有名選手も各自が水着メーカーとイメージキャラ
や支援金協力を結んでいる。これも相互扶助である。スピード社製を利用して
、いい記録を伸ばすために大きなジレンマが生じているゆえんだ。

水連は既存の三社にたいしてスピード社のものと似たような水着改良が
出来ないかと持ちかけて、先日その成果の発表があった。これに満足しな
い選手が本番でスピード社のものを着用することが予想されるし、水連は仮
に公認規制が無視されても、メダルを獲得したりすれば、ほとんどお咎めをし
ないないだろうことも予想される。「勝てば、すべてよし」の世界であるからだ。

水着問題だけでなく、スポーツは、ある種のストイックで厳格な規制のもとで、
競技運営をしなければ、いずれサーカスのようなショーとなり、古代五輪が衰
退したように人々から離れてゆくだろう、な。
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