領土

日本の領土問題は三つある。
北方領土の四島、尖閣列島、竹島がそれである。本来、日本の領土なんだが、それが問題になるのは、それぞれに他国(他地域)が領有権を主張しているからだ。ふだんはあまり関心が向けられないが、なにかきっかけがあると、時にホットな争いになる。領土問題には頑迷なナショナリズムが絡むことが多いので、いっそうややこしくなりがちだ。どこの国でも政治家のなかには、ナショナリズムを煽る輩がいるので、領有権争いはこじれる。


北方領土は第二次世界大戦下に当時のソ連(ロシア)に占領され、返還されていない。尖閣列島は東シナ海にあり、中国、台湾も領有権を主張している。周辺海域に埋蔵エネルギーが豊富にあるとされることから注目されているが、陸上使用にはならない岩礁である。竹島は日本海の孤島で、周辺が魚貝の宝庫といわれ、島根県は県内の一部としているが、テニスコート二面くらいの岩島。

三問題のうち北方領土では日本人が居住していたが、他の二つは無人島である。小さな無人島であっても、主権が及ぶ領土であるとするのは、そこから領海権や経済水域の権益が発生するからである。実益以上にメンツやプライドもかかわる。住民レベルでいえば、隣家との間に敷地線をどう引くか
、境目の柿の木の実はどっちのものか、というような問題である。

この領土問題について、結論を先にいえば、政府は本腰をいれて問題解決を図る努力をしたことがない。ずっと相手の出方待ちである。例によって、先送りしている。北方領土問題にしても戦後60余年たっても、なんら解決の兆しがない。60年かけても未解決なものなら、もう解決する気がなくなっていると見るのが常識だろう。なんにもしないで、向うから折れてくるのを待つだけなら、外務省も政治家も
いらない。

竹島問題でも、政府は問題が生じたときだけ領有権を口にするが、事の是非を別にして、戦後ずっとこの島に積極的にかかわって建造物を建て、港やへリポートを建設し、軍事警察要員を派遣してきたのは韓国である。政府は相手のデモストレーションを見て見ぬふりしてきた。

今回の竹島問題はというと、二つ。文科省が小学校の教科指導の解説書で、竹島が領土であることに触れるよう指導したことに韓国政府と国民が強く反発したこと、在日大使を抗議召還したことである。相手は自分のものだと主張していることを知ったうえでの指導であるから、これが揉め事のタネに
なることを踏まえてであろう。お得意の教育的配慮も根回しもなかったのだろう。

二つ目はアメリカの地名委員会とやらが、竹島を日本領とも韓国領ともせず「主権未指定」としたことに韓国政府が猛然と抗議した結果、ブッシュ訪韓前という状況を勘案したのか、異例の早さで「韓国」と変更した。日本政府は例によって、ヒトゴトのような無関心な態度を取っている。領土だというなら、もっと実効的な支配を見せる必要がある。

タイブレーク

テニスにしろ卓球にしろ、ジュース、ジューで試合が膠着状態、長引くと競技運営の邪魔になるので、タイブレーク制が採用されることがある。ようするに、あと一手で勝負が決まる態勢で試合を続行する制度だ。

北京五輪の野球にこのタイブレーク制が取られることに急遽きまったそうだ。延長試合の11回からに限り、無死一、二塁走者を配置して攻撃する。打順も勝手らしい。三番打者が打撃に着くなら、一番が二塁、二番が一塁走者に出られる。これなら簡単に得点できるという設定だ。

こんな変則競技をするのは、主にテレビ中継を年頭に置いているせいだ。開幕ニ週間前の泥縄的ルール変更である。星野監督は、報道によれば、抗議すると言っているが、もともとに世界野球連盟のカヤの外に置かれたいたのだから、たぶん黙殺されるだろう。

テレビ支配下で、スポーツ競技変身させられている。ルールも試合形式もすべてテレビ番組編成や画面映りの都合のよいように変えられている。競技団体側は当該競技の普及宣伝になる、テレビの話題に上ることに喜びを感じて、テレビサイドの言うなりである。コマーシャルをはさみやすいようにハーフタイムを作った競技や、画面が寂しいと一人競技を廃止、団体競技だけにしたスポーツもある。

なんのことはない。競技運営の背後で絶大な力を振り回しているのは、テレビである。オリンピックは
テレリンピックになって久しい。ロス五輪いらい、ますますオリンピックはテレビ放映権のもとでの娯楽となりつつある。遠い将来、五輪は二度目の衰退を招くだろう。こんどはスポーツ精神の商業主義過剰によって、である。

教員採用汚職

特定の職業資格を得るなり、身分につくための不正手段は二つある。議員など外部の有力者に圧力を依頼するか、組織の幹部にダーティな操作を期待ですることである。もちろん、このコネつくりのベースにカネがいる。

国会や自治体議員にとって、いちばん手固く、長続きする票田の私有化は、就職の世話である。ドブ板の補修から工場誘致、道路建設など利益誘導はいくらでもあるが、就職の世話という恩義を課すことは、関係者から熱いリスペクトを受ける。御本人も気持ちよく自尊心を満足させる。「どんなもんだい、オレの政治力は」

こういう議員心理につけこんで多くの支持者か、支持者をを装った有権者が就職斡旋を期待して群がる。民間企業であれば、こんあことは普通の状況であろうが、公務員職は、一応、公募の壁がある。親方日の丸につながる安泰産業だし、教育職なら、父母からよかれあしかれ信頼と尊敬を得られるからこたえられない。世間は教員に正義と誠実な人物であることを期待している(ふりをしている)。

部外の口利きのほかに不正採用を内部の関係者が共謀して私物化するやり方。今回、いまのところ露見しているのは、こっちの方だ。女性小学校長の場合、長男、長女を合格させてもらったのは、内部有力者による操作である。幹部二人に計二百万円のワイロ。将来得るべき生涯賃金に比べると、破格の安さである。この安さで合格が売買されるところに、なんだか悲哀をかんじるほどだ。

それはさておき、女性校長は教員職がどんなに居心地がいいものか、二人の子どもに世襲させたいほど、いいものだと体験してきたのだろう。安泰な身分と正義と誠実な人物像を得るために不正手段を使っても手の入れたいという校長一家。

教員職というのは、格差社会にあって、まあ、いい身分の確保である。私立だと、教員を公募するのは稀で、たいがいは内規で採用しているから、情実採用は青天井である。しかし、それは私立の勝手であるけれど、公務員の教員職はそうはいかない。

というわけで、教員の採用汚職は尽きない。いま大分県教委の不正が露見して大騒ぎをしているが、
どこの府県でも過去をさかのぼれば、このような不祥事を抱えていたといってよい。時分ともなれば、府県会議員が教育長室に入れ替わり立ち替わり、、、といった光景が日常的であったはず。受験者名簿みたいなものが教育長室にあったものだ。遠い日を想い起こせば見たことがあるな。

大分県教委の失態は、そんな危ない橋を渡ると、エライ目に遭うという教訓が生かされず、いまもって
潜行させていたことだ。時計がざっと430年ほど遅れている。公務員職が県内でもっとも有力で安定企業であるような、貧しいところに不正採用が巣食っている。他の県でも波及する問題だろうな。

五輪

北京が近づいてきた。
マスコミの各競技について勝敗予想が多くなってきた。
要するに、話題のポイントはメダルが取れるかどうかに尽きる。
早々と各国のメダル獲得競争を予想している。
日本はアテネ、シドニーよりもメダル獲得数を減らすだろう、という予想があった。

競技選手は勝つために精一杯の健闘をするのは当然であるが、メダル獲得が
国威宣揚に繋げたような予想が多いのは困ったもんだ。日本はA国よりも多く、
B国よりも少なかったとしても、なんの問題もない。国民一般の健康度や身体
能力の優劣をとやかくいう話ではない。五輪は手足の能力を争う競技で、国民
の頭の中身を問う競技でもない。

競技選手を送り出すには、税金による支援もあってのことだから、がんばってもらおう。しかし、その結果は個人のものであって、国家の威信や名誉を上げたり、下げたりするものではない。金メダルが多い国とない国との間になんの意味もない。たまたま、いい選手が多くいたか、いなかっただけに過ぎない。国家の体制が優れているか、劣っているか、そんなことも、なんの関係もない。みょうなナショナリズムを背負わせて国家間の争いにしてはならない。

野球チームの監督、星野仙一が腰を打って治療三週間だという。マスコミ報道で見る限り、この人の勝ちにこだわった言動は、並みでないが、あんまり感心しない。ニッポン国を背負ったような悲壮感や責任感など振り回す必要はない。青筋立てて気負うことはない。メいっぱいフェアーに、もてる力を発揮すれば、それでよい。野球は世界では一部の地域でやっているローカルスポーツである。メダルの色がどうであれ、あるいはメダルに手が届かなかったとしても、たいした問題ではない。一生懸命やれば、それでいい。

五輪は、ただいまの人類がもつ最高水準の運動能力展示ショーくらいに思って見ることにしている。

2050年

G8で地球温暖化に関する温室効果ガス(主にCO2)削減計画策が合意され、宣言が発表された。

な、なんと42年先の2050年までに「半減」しようということになった。18年先の中期目標では数値さえ明示しないことになった。

2050年。G8の首脳たちは誰一人、この世にいないだろう。一番若いロシアのメ首相は42歳だが、あの国の平均寿命は50ウン歳と先進国最低だから、たぶんメ首相もご存命でないだろう。根回しした各国のシェルパ官僚たちも生きていないだろう。

地球規模の世界政策といわれるような約束が、政策決定した者が誰もその遂行結果の実際をみることがない歳月の先にある。そんな政治約束をしてもいいのか。おどろくべき壮大計画であるが、同時にあまりにも悠長な話ではないだろうか。これって面倒のことを一気に先送りしたということではないのか。

2000年9月に21世紀を前に国連加盟国のほぼ全部の加盟国首脳は国連に集まり、国連ミレニアム開発宣言をした。2015年までに一日一ドル以下で暮らす絶対的貧困層を半減しよう、地球で飢餓に苦しむ人を半減しよう、初等教育をすべての子どもたちに学ばせよう、女性の権利、地位を向上させ男女格差を解消しようなど、開発途上国の人々の基本的な生きる権利の向上について立派な8項目の達成目標がたてられたが、達成年への半ばにして、何一つ実現しない見込みとなっている。

いまや、参集した各国の為政者はほとんど交代している。世紀の変わり目というお祭り気分の盛り上がりはとっくに消えている。あの人類愛や公正な世界を樹立しようという熱情はどうなった、開発目標はどうなったんだという強いアピールも、達成見込みがないことに対する大いなる反省や再スタートをはかる熱気もない。すくなくともこの国にはない。


「国家百年の大計」というのは、年頭の挨拶の美辞麗句みたいなもので、だれも本気で聴いていないから、壮大無比の話をぶち上げられるのだが、G8もそんなものだろうか。こういう先送りの宣言をすると、いちばん大きな悪い影響は、だれも温室ガス削減に熱意を失うことだろう。ぼくやあなたが生きているうちに実現しそうもないことに、人は責任をもたない。

電気をこまめに消しましょう、水道の蛇口を垂れ流しにしましょう、、、、そんな個人的な努力では、遅すぎるところまで事態は進行していると思えるのだが、ね。
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