晩夏怪談三題

その一、国定忠治やショパンと生まれがおないドシ!!。200歳をはじめ、スーパー老人が戸籍上では生きていた。こんな幻の超高齢者が全国各地で続々見つかっている。113歳の「白骨の父」の年金をアテに暮らしていた長女や孫らが東京で逮捕された。

死ねば、火葬、埋葬するためにも死亡届を出す。出された届は年金とか国保とか、役所内の各部署に通知されて確認されるだろう。身元不明の行路病人でも埋葬されるが、自宅で死んだあと、家族が死亡届を出さないケースはたしかに把握が難しいのはわかる。

しかし、役所の担当者は実務をしながら、明治の初期や幕末の生年月日である住民が生きているのかどうか、一度も疑問を持たなかったのだろうか。まして電算化する際などは、そういう機会であったはず。

役所の弁明に、罰則がないもんで、というのがあった。ミスしても不作為でも役人は責任を問われないのだ。いまどき無責任が問われない組織・団体というのは、役所、役人くらいなものだ。税金食い野郎どもは、住民の動向に一片の愛情も持っていないのだ。

そのニ、権力抗争に明け暮れている民主党。もともと主義主張が異なる寄り合い世帯なんだが、政権についたトタン、むき出しの腕力闘争。二年任期の代表選が回ってきたからといって、わずか三カ月前の代表選出の首を変えようとしている。ならば、三カ月前のは、なんだったのか。政権交代から一年で、三人目を担ごうとしている。自民党の政権たらい回しをあれほど批判していたのに、この始末。今回のは、官房長官、幹事長ポストをカン側が独占しているのが不満の元らしい。権力に目がくらんで、政策不在、国民不在。これでは、口すっぱく改革の旗印にしている官僚主導を助長しているようなもの。キャリア官僚たちは高笑いしているだろうな。

その三、プロ野球のセ・パともぺナントレースがドングリの背比べ状態。TV観戦をすることが多いのだが、あのプロ野球解説者のいい加減さは、なんとかならないのかな。だいたいTV画面を見ているのだから、アナだけ十分、状況解説は不要なんだ。それでも解説者というのがいる理由がわからないが、彼らのおしゃべりの不勉強なこと、場当たりのこと、ウルサイこと!!。

チームや投手、各選手の前回対戦など成績や内容も把握しないまま、毎回同じセリフばかり繰り返す解説者。ここでホームランを打てば逆転(あるいは同点、あるいは反撃のチャンス)などとバカなことを大真面目に論評する解説者が多すぎる。その程度のことは野球好きの学童でもわかっている。なるほど、そうかそうか合点!と感心するようことを言う解説者は皆無だ。だいたい往年の名選手が、いい解説者とは限らない。

「今日は負けたが、明日、明後日勝てば、三連戦は二勝一敗だから、まずまず大丈夫ですよ」
 こんな当たるも八卦、当たらぬも八卦、「もし」「たら」ばかりの予想なら、だれでも言える。こんないい加減、ノーテンキな解説者なんか、いらない。

 TV、ラジオ局は実況中継に解説者がつきものという悪しき慣習を見直すべきである。それともアナだけでは力不足なのかな。

名監督

おじさんたち、おとなの男のなりたい夢というクエッションに 野球の監督とオーケストラの指揮者というのが定番のアンサー。どちらも絶大な権限を持たされて、さぞかし思う存分、自己実現ができるのではないか、と考えられるからであろう。

指揮者のことはさておいて、スポーツの世界の話。

南アフリカのサッカーW杯まえに岡田ジャパンはテストマッチを3連敗。出発前には監督更迭と酷評されたが、決勝リーグでわずか一戦勝ったとたん、名将ともてはやされた。手腕を見抜けなったとして、「岡ちゃん、ごめんね」というフレーズがフアンのみならず、マスコミにも一時はやった。

名将というか、名監督というか、その評価は、こんなに手のひら返すような評価でいいものか。これでは、ただ、勝てばいいリーダーといわれ、負ければ、アホ馬鹿呼ばわりされることを意味する。

いま愛する阪神タイガースが、それなりに健闘している。常に首位争いにからんでいることは、フアンとしてうれしい限りであるけれど、ではでは、マユミ監督は名将、名監督になったのか。

かつて9連覇した巨人のカワカミ監督は、監督の采配で勝負に勝てるのは年間5.6試合と言っていた。残りの勝負は選手の力によるものである。ヤクルトのフルタは、キャッチャーのとき、野球は監督のもの、だから一度は監督をやってみたいと言っていた。監督のリーダシップで5.6試合はモノにできることに監督の醍醐味を見出している。

さて、男の夢に野球の監督というのがある理由は、目的がわかりやすいことである。選手起用に全権を任されている。球団経営のことは抜きにして、有無を言わさぬ人事権(選手起用権)が託される。成績が振るわぬと、まわりまわって経営にも響くが、当面は、ひとつの目的に自分の人事権をフルに発揮して、(持っているとされる)判断力、指導力、統率力などリーダーシップのすべてをかけて勝負すればいい。そこには、妙な人間関係のしがらみや思惑、打算や妥協というようなややこしい要素が入りこまない。満天下の公開試合で腕をふるう。そこに夢の美学があるのだと思う。

しかし、野球のような団体ゲームは、団体としての目的と、選手個々人の目的意識がからみあって、試合をする。プレーボールとともに攻守が所をかえて動きはじめると、監督は有効なサイン、選手交代、守備のコンバートくらいしか指導力を発揮できない。選手が緩急自在な動きをする。選手の持てる力が強弱に現れる。

つまり、具体的にいうと、ピンチ、チャンスに「三振を取れ」、「完封で勝て」。「ファインプレーでゲッツーを取れ」、「満塁ホームランを打って逆転しろ」、、、などと指示したところで、そうなるものでない。試合展開の肝心要の重要な場面では監督の指導力は及ばない。

ということは、実際の試合では、ワンポイントの投手交代や代打の代打といった細かい選手起用の妙が監督の指示できる範囲である。勝負の命運は、選手自体の力である。能力の高い、やる気の旺盛で、丈夫な選手を多く抱えれば、勝率は自ずと高まるものである。勝負事というのは、人の闘争本能を刺激するものだから、町内会の玉入れや綱引きをみてもわかるように、放っておいても人は争うものである。まして生活がかかっているプロ選手である。

であるからこそ、巨人は常勝チームであるが、ハラ監督はじめ歴代の監督が名将、名監督だななんて誰も思っていない。あれだけ金力にあかして各チームの中軸をかき集めてチームを組めば、だれが監督になっても勝つ。たいがいの野球フアンなら、そう思っているはずである。オレでも監督がつとまりまっさ!!(裏を返せば、監督がいなくても勝つということ。)

さて、健闘する今季の阪神。マユミは名監督になったのか。残念ながら、そうではない。カネモト不調、アカボシ消滅、投手陣がいまいちのなかで、新加入のマートン、ジョーの大活躍。ブラゼルと平野の充実が勝ち試合を生んでいる。なにしろこの4人が打率ベスト10に出入りする強力打線である。彼らをマユミが育てわけではない。闘争心が強く、自己技量の向上心にたくましい選手が増えれば、勝つのである。チーム力自体の強さは、編成がいい選手をそろえることである。

名監督というのは、そのチーム力を代表する、いいまとめ役であればいい。願わくば、選手から好かれて、この監督のもとで勝ちたいという気持ちを強く起こさせる人間力があるかどうか、に尽きる。

8.6に思う

img_169497_26734362_1.jpg




ヒロシマへの原爆投下記念日に初めて国連事務総長はじめ、初めてアメリカ政府関係者として駐日大使らが参列した。このことをもって、核廃絶へむけて一層の国際的連携と理解が深まったという論調があふれているが、ほんとうにそうだろうか。

最近のアメリカ国内の世論調査によると、ヒロシマへの原爆投下、つまり大量殺戮はやむ得なかったと賛成するのが、6割に達している。戦勝国の国民の、こうた考えは戦後一貫している。つまりは戦争の早期終結、自国将兵の犠牲の最小化、戦後の対共産圏との國際戦略などを見越して、史上初の核保有国が、核の威力を存分に発揮したのは当然だと考えていることだ。

戦争があり、大量破壊兵器の開発競争があり、その死闘のなかで戦勝するためなら、なんでもあり、という戦争のあり方は古今東西からある。たとえば、航空機の発明は、無抵抗の市民を無差別に巻き込む大量殺戮を可能にした。ゲルニカ爆撃、重慶空爆、ドレスデン空爆、東京空襲、、、。平和な市民施設も無辜の婦女子も含めて大量に破壊し、殺す空飛ぶ兵器となった。

日本軍は開戦時の真珠湾奇襲のときから既に帰還不可能な人間魚雷艇を発射している。神がかりな国民意識の洗脳、戦陣訓、玉砕戦法、特攻出撃、人命尊重を一顧だにしない一億総動員。洋の東西の、こうした戦争手段を鳥瞰すると、核兵器を仮にも米国以外の国々、たとえば日独伊あたりが開発に成功していたら、戦争に使わなかったという保証はまったくない。狂気じみた戦闘行為に走った国々である。必ずや、そうであったに違いない。

だから米国の原爆投下が免罪になるというのではない。許されざる非道ではあるが、いったん戦争が勃発すれば、勝てば官軍のことばどうり、非道も無軌道もやり放題となる。國際社会のなかで自国益を守るためなら、いかようのこともやってしまうことも是認する自己中心な人間性を思うと、並みたいていなことでは大量殺戮破壊はなくならない。

第二次世界大戦の大きな犠牲と破壊に立っても、いまだに戦争は悪、やってならない最高の禁忌だとされていない。國際社会は相変わらず「やむおえず」戦争をやっているし、他国の理不尽は戦闘行為をいち早く容認する為政者も出ている。核兵器、大量殺戮破壊兵器の抑止力とは、有無を言わせず相手を黙らせることにある。そういう最大効用を持つ武器を背景にもたらされる世界の成り立ちを。人間社会は求めて築いてきたのであろうか。

8・6にしろ、8.9にしろ、8.15の敗戦記念日にしろ、いつも思うことは、平和や安全を心底希求する一方で、愚行を抑えきれない人間の営みへの底なしの空虚感、絶望感がある。

                                        写真はGoogle
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる