またまた戦争

(カダフィ大佐)
(写真はGoogle引用)

北アフリカで戦争が起きている。米英仏からなる多国籍軍がりビアを奇襲攻撃した。トマホークを打ち込み、緒戦に戦果をあげたと伝えられる。アフガンもイラクもまだ終息していない世界で、第三の戦争である。

国連安保理が承認した武力制裁とはいえ、他国の内戦に国連が介入するのは基本的におかしいことである。チュニジアのジャスミン革命に端を発した北アフリカ異変の一つだが、カダフィ大佐の暴虐政治に怒った国民評議会による反体制軍と政府軍側とが内戦化している。確かに伝えられるカダフィイの国民弾圧はすさまじいが、国連が国民評議会側を民主化の旗手とみなして、カダフィ体制崩壊を公然と支援するのは、やはりおかしい。

その国の体制は、その国の人たちが決めることで、一方に加担して開戦してまで政権倒壊を図るのは、いかがなものか。理不尽である。

そういう介入が可能であれば、米英仏が協調すれば、彼らが気にいらない国家体制をとる他国を民主化支援、国民保護の名目で武力攻撃できることになる。あの北朝鮮には、どうして、その論法で臨まないのか。結局、多国籍軍の攻撃の裏にあるのは、後ろ盾がない小国の世界第8位の石油埋蔵量にたいする利権の確保なんだろう。

もともとリビアは核開発放棄と引き換えに「テロ支援国家」の看板をアメリカに外してもらってはいるけれど、憲法も議会もない独特のカダフィ長期独裁政治を世界は快く思っていなかった。胡散臭く思っていたので、この内戦化した国内の現況に乗じて、カダフィつぶしをもくろんだ戦争であろう。

いかなる理由にしろ、ノーモアー戦争、というのは、しょせん絵空事か。大国にとっては、都合がいい戦争、不都合な戦争があることを示している。わが日本は未曾有の大震災、原発爆発で、それどころでないかもしれない。遠い対岸の火事であるのか、TVのひな壇論評家もおとなしい。

センバツは中止を、石原知事は引退を

その一、大地震、大津波、原発放射線の拡散、、3・11から6日目。いまなお行方不明二万人強という東北関東大震災。救援救命、再建復興へ全国民が憂慮している事態は進行中なのに、センバツ高校野球を開くかどうか、大会本部は18日に決めると言っている。

「被災者へ夢と希望を」などとキレイごとを言って逡巡しているときでない。きっぱりやめるべきだ。それでこそ、普段、大会本部が主張している「教育に一環」であり、見識であると考える。

神戸淡路大震災のときは強行したが、あれとは事情が違いすぎて参考にならない。まず事態発生と大会開催とが時間的に近接していて、事態が落ち着きを取り戻していないし、被災者の心身が癒されていない。被災者、破壊された人、地域が大規模すぎ、当面明るい光がさす環境ではない。地震は、なお余震が終わらず、原発事故の鎮静化の目途がない。電力事情も交通事情ひっ迫しており、無用の消費、無用の御邪魔往来を行うべきでない。

スポーツの効用について十分に積極的に肩入れする者だが、それでも今回の深刻な事態にあっては、こういうときには、しょせん「たかが野球」にすぎないと思いたい。救援活動や再建活動をよそに高校生たちが「明るく楽しく」野球をエンジョイするのは、生活が根こそぎ奪われて避難所にいる43万人の気持を逆撫でする。不眠不休、徹夜の救援活動をしている人々の共感を得られまい。

この際「たかが野球」の分に相応しく、大会本部は開催を中止すべきである。だいいちTV実況放送のような大会支援が可能かどうか。仮に被災地状況を抜きに「投げました」「打ちました」とノー天気な放送がなじむかどうか。

そのニ、この大震災を天罰だと石原知事が、また暴言を吐いた。被災者は天罰だと言われて、慨嘆、憤慨している。仏教にもキリスト教にも十戒と言われる罪があるが、被災者の人々が、どんな罪を犯したというのか、。さすがに石原知事は翌日、謝罪したが、再三、激越な言辞で、差別や偏見発言を繰り返す、この人物はもう引退すべきである。78歳にして4選を目指すというが、老害に極みである。

センセーショナル小説で世間の瞠目を浴びて世に出たせいか、この人は激越言辞が習い性になっているが、小説家の資質と政治家の天賦とは別もの。人材難でこの人を担ぐ自民党も、対抗人物の擁立もはかばかしくない民主党もふがいない話である。

大災厄

史上最大クラスの大地震、
史上最大クラスの大津波、
我が国初の原発の炉心溶融、爆発。
万人規模の死者不明数、
最大規模の救援動員体制、
途絶する交通機関、届かぬ救援物資、食糧、医療。
立ち往生した社会活動、

いやはや空前の大惨事が発生、国家のあらゆる活動が、事態の掌握、対策、再建復興への一点に集中してめまぐるしく活動している。その責務にある人、組織がフル回転で動いている。ここは命がけの奮闘で頑張って貰いたい。救命救援を待つ現地の人々のために最大限の活動を期待している。

この際、日常の思想信条、党派性は、一時休戦、不急不要の産業経済社会活動などは後回し、あらゆる障壁を超えて立ち向かってほしい。問題によっては超法規的措置をとってでも、やるべきことをやってもらいたいものでやる。国家的な能力が問われている。

こういう事態が起きると、災厄の現場から遠く離れて、安全なところにいる者は、ただ、祈るしかない。あれこれ事態の推移について批判や批評する時期ではあるまい。

入試投稿

京大など4大学で試験中に「YAHOO智恵袋」の問題が投稿され、回答を得ていた事件は、予備校生の仕業と分かった。IT時代の新手のカンニングで、不正とは言え、いまどきのケータイの性能、操作性に疎い者にとっては、信じられないような高度のスキルで驚いた。

この事件に、いろいろな論評があったが、なかでも面白かったのは、毎日新聞のコラムで、論説委員氏がアメリカ留学中の体験を紹介していた記事。数学の試験を受けて、一生懸命、答案の余白で数式を書いて計算、余白がなくなると、先の部分を消して、筆算を続けた。ところが、他の米人学生らは、さっさと計算して、退室してゆく。そこで、気づいたことなのだが、彼らはみんな電卓のような計算機を持っているのだ。数学のテストに計算機は必需品とされているのだ。

論説委員氏は、こういう趣旨のことを考える。日常生活では計算する際、電卓を使うのは当然。連絡・照会にケータイを使うのも日常生活では欠かせないアイテム。それなしに、いまの社会生活、人間関係が回らない。ならば、試験のときだけ、あえて非日常の空間を設けて、日常から隔離することに意味があるのか、と。

なるほど。大学での普通の期末テストなんかでは、辞書、ノート、関連図書なんでも「持ちこみ可」という試験をやっている。これは日常と非日常の乖離がない。「持ちこみ可」にしても、デキない学生は幾らも居る。大学入試でもケータイを持ち込ませて使用自由にしたら、どういうことになるか。「持ちこみ可」を前提に出題すればいい。
ケータイ不携帯、ケータイ退治をあれこれ考えるよりも、逆転の発想で興味深い。

ただ、こうしたことにすると、一番困るのは大学側である。出題側の負担が大きくなる。いまでも、たいがいの大学や教授たちは入試問題作りなんか雑用だと軽視しているし、ほんとうは、予備校に出題作りを委託している大学もたくさんあり、さらに出題を作る能力のない教授や大学はザラにあるからだ。

ろくに大学当局で不正発生の経緯を検証することもなく、警察沙汰にしてしまう大学。根が深い病弊は、自立性を失くしたいまの大学側にある。ケータイ万能学生の行為が不正でなくなるのは、いつの日のことだろうか。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる