震災で思うこと

その一、安全神話が壊れた原発をどうするのか。

メディアの論調、識者の主張は、あいまいだ。あいまいなのは、原発必要論なんだが、今の御時世では、現状維持や推進を表立ってクチに出せないからである。必要論者の議論の根本にあるのは、いまの経済社会の繁栄は原発電源があってこそ築かれていると考えているからだ。しかし、原発が生み出す電源は我が国の電源の3分の1である。実際にはもっと少ないだろう。この数字は推進論に立つ立場の側が、原発の占める重要性を強く言いたいための値を思われるからである。

いわゆる低エネルギー社会を築く努力を本気に取り組めば、この程度の数字はかなり軽減できる。街の中心部の不急不要な照明やムダな装飾本位の明かり、電力過剰消費の商品や装置の節約など社会全体が節電に取り組めば、軽減できる。節電をすることを法律でもって規制することも必要だ。

人ひとりひとりが身の丈にあった暮らしをしているように、国家も国民、国土の身の丈にあった経済生活をすればいいのだ。資源がなく、国土が狭く、人口が多い国の特性に合わせて暮らせばいいのである。牛の真似をして、腹を膨らませすぎて破裂したカエルのような寓話を原発が支えていたのである。原発の開発はもうやめて、いまある原発も段階的に店を閉じてゆくべきだろう。繁栄を求めて、国民、国土を壊滅させるおそれがある原発は取り壊そう。

そのニ、自衛隊は国土建設隊に改組すべきだ

東北大震災に出動した自衛隊は「全軍」のほぼ2分の1に当たるそうだ。およそ10万人強という。自衛隊の被災地への大量出動は、まことに当を得たもので、もともと自衛隊はこういう活動をするために国民が「百年兵を養って」いると考えている筆者には、当然の職務であると思われる。

自衛隊は、いまも違憲的な存在。「拡大解釈憲法」によって必要不可欠な国防力とされている。日米軍事同盟のもとで、専守防衛の枠を超えた戦力を持っていると考えられているが、誤解をしないでもらいたいが、自衛隊にとっては、幸いなことに、その戦力を実戦で活用する機会がない、今後もないだろう。それは国民の大多数の切実な願いであろう。

そうであれば、自衛隊が日々隊員の鍛錬にはげみ、多種多様な車両や重機や物資は、国民や国土の災厄に対してこそ、持てる能力を発揮すべき「戦力」である。自衛隊が違憲的存在である現状では、自衛隊の第一義的な存在理由は、災害出動や国民の救命救助などを含む国土建設隊であるべきであろう。専守防衛が国是であるのだから外敵からの直接の侵略行為がない限り、自衛隊は出番を持たない。こんどの東北大震災のような国難にこそ総力で戦うべきである。24万人の自衛官を税金で養っている意味は、そこにあると考える。自衛隊の本務というのは、災害出動などによる国民生活の防衛でなければならない。

きょうの新聞記事。小さな扱いで、震災出動した自衛隊員の死者が二人目になったと報じていた。合掌

中止しなかったセンバツ

センバツを開くかどうか、大会本部が開催検討会合を持つ前に、中止すべきだと主張した。しかし、大会は強行されて日程を消化、今日閉会というので、もう一度、当方の見解を書いておきます。

結論からいえば、我が国の野球少年とその周辺の関係者は、我が国がどのような「国難」、あるいは未曾有の大災厄に遭っても、我れ関せず、どこ吹く風とボール遊びをしよう。被害者や被災地のことなんか、どこ吹く風とボール遊びをしよう。そういう世界でも稀な自分本位の世界に耽溺する伝統を築く第一歩を踏み出したことになる。

開会式。偶然ラジオを聞いたが、大会主催者の毎日新聞社社長も高野連会長のあいさつも、この一大事の際になぜ大会を開くのか、いいわけ、釈明ばかりしていた。後ろめたいのだ。そして被災地の人々の希望と勇気を、あるいは一生に一度しかないかもしれない甲子園を踏む機会を与えてやりたい、などと話を結んでいた。

ようするに初めから「開催ありき」にもっともらしい、きれいごとの理由をくっつけたのにすぎない。他のスポーツ、イベント等が中止、延期しているのにである。不幸な事態が生じたら、その不幸の谷間に沈んだ人々の心が安らぐ時間が必要です。そのうえ、周辺のものは「服喪」して、同様の哀しみを体現するのが、この国の美風ですが、そんな配慮はいっさい無視された。野球ぬは野球である。野球を貶めるつもりは一切ないけれど、この時期、もっともっと大切なことがある。かれらおエライさんたちは、二週間まえに不測の死を迎えた近親者がいても、「勇気と夢」を満たすために野球をするつもりになるのか。

そのうえ、被災地の高校チームを大会に参加させて、ムリヤリ感動と勇気を盛り上げさせた。じつにあざとい演出ではないか。スタンドで義捐金集めをするとか、鳴り物入りの応援をやめるとか、開会式の歌を短くするとか、そんなセコイことをするのも、後ろめたさを隠すためであろう。この国には、人さまが災難や不幸の際には「歌舞音曲」を慎むという美風があるというのに。

高野連会長が言う一生に一度のことなんかは、長い人生で何べんでも経験することである。最悪の犠牲者が続出しているときには、自分の趣味嗜好を我慢する、やむを得ず見送るという姿勢も大切なことである。大会関係者はそうした絶好の生きた教育上の配慮を見捨てた。伝統の大会であるがゆえに、非常時の際は勇気を持って大会を中止、次の機会につなぐことで、いっそうの伝統を磨くことができるという教訓を生かせなかった。

高野連会長はかつて早稲田の総長だった。その早稲田は被災地の学生らに配慮して、授業開始を例年よりも一カ月遅らせると伝えられている。どこの教育の現場でさえ、学費の免除、入学時期の遅延など、いろいろな配慮がなされている。

教育の一環であると自賛してやまないセンバツが強行されたのは、結局、この国にいかなる不幸な出来事が起きても、みんな恐縮するふりして、ボール遊びをしようという新たな伝統をつくるつもりだったに違いない。

大きくなりすぎたイベントは、利権なんだ。
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