本 『証拠改竄 特捜検事の犯罪』(朝日新聞取材班・朝日新聞出版)

この本は朝日新聞取材班が、検察史上最悪の不祥事をスクープしたときの記録です。

いうまでもなく、厚労省の現職の女性局長逮捕(のち無罪)にまで発展した郵便証明書不正事件の捜査過程を発端から裁判で無罪放免されるまでをフォローした取材記者たちの目線から描いている。調査報道のすぐれた記録で、大変面白い。

筆者の現職のころでも、警察は極めて恣意的に捜査を行い、基本的には政府権力サイドの擁護に立ち位置を持つ捜査機関であることは、自明のことという認識があったが、検察庁の特捜部だけは法と正義の最後の拠みたいな信頼感を持っていた。なにしろ、ローッキード事件で元首相、田中角栄逮捕の一報を職場の宿直で叩き起こされて知った経験があり、特捜の強大な捜査力に感嘆したものだった。

その特捜部も近年は、政財界の巨悪やバッジ(国会議員ら)を挙げるような実績が乏しく、佐藤優元外務省情報分析官が言うように「国策捜査」と見られても仕方がないような政府施策に協力する事件を処理している。

ただ、ここでは特捜部そのものの組織の硬直性や検事の腐敗を慨嘆するつもりはなく、元取材経験者としては、なんといっても朝日の取材陣が、いかにして特捜部の鉄壁(と過大に評価されてきた)保秘の壁を突破できたか、というストリーに興味を持ちます。

やはり、いたのですね。あの「ディープスロート」が。ウオターゲート事件で米国史上初の現職大統領・ニクソン辞任に追い込んだワシントンポスト紙の特ダネを影で支えた内部告発者のことなんですが、朝日の特ダネにも、「その人」がいて、「一回だけしか言わない」と断って、検事の証拠改竄の事実を裏付ける発言をした人物がいた。前後の文脈から明らかに検察庁サイドの人物です。本のなかでは「その人」のプライバシー、取材源の秘匿を守るためか、それ以外にはほとんど紙幅を割いていない。

「その人」の発言を引き金に問題の隠滅されたFD(フロッピーディスク)の所在を探し、見つけたFDを高度な解析技術を持つ研究所に持ち込み、日付改竄の事実をつかむあたりが、ハイライトの面白さがある。特捜部長、副部長の連鎖的な逮捕は、このスクープを踏まえて露見した不正であったわけですから、やはり、不正の根幹にかかわる
「その人」証言は重要だ。

 早くから今回の郵便不正事件についてあの主任検事による強引な捜査と内部の風評、初公判いらいの証拠不採用、証人否認など特捜ストリーの破綻を思わせる不審な点が随所にあった。ここで「なんかヘンだな」と周辺を嗅いで回ったからこそ、「その人」に遭遇できたわけで、朝日取材陣は取材の本道を意一歩一歩踏んでよくがんばった。ちかごろ稀ないい調査報道だった。調査報道が実績を挙げるほどに、新たな「その人」を生み出すことができる。多くの「その人」を引き出すことは新聞の存在理由にもかかわることだと思う。

雨のしのびあい

昔映画少年だったので、ナツメロならぬナツDVDをよく見る。

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(↑ 写真はGoogle ↓)

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今回はジャンヌ・モローとジャン・ポール・ベルモンドの『雨のしのびあい』(1960)を見る。原題は『モデラート・カンタビレー』。だが、当時は原題とはぜんぜん関係ない、あるいはフィーリングのみにこだわった邦題を勝手につけていた。そういうのも懐かしい。ずいぶん的ハズレの邦題もあったが、いまはなんの工夫もなく、原題のカタカナ表記のままが多い。

『雨のしのびあい』は金持ちの退屈妻と格下の工員との7日間の恋物語。ジャンヌは工場長の夫とお屋敷に住む子持ちの母、ジャンはその工場で働く工員という役柄。ジャンヌ・モローは『現ナマに手を出すな』『死刑台のエレベーター』などで、ジャン・ポール・ベルモンドは「勝手にしゃがれ』」で時代のトップランナーになったフランス映画の芸達者コンビ。

ジャンヌは、倦怠感に満ちた金髪の美貌がウリ。ピアノを習うこどもを教師宅に連れて行き、そのあと子どもと散歩するのが唯一の仕事、実業に明け暮れる亭主に愛想づかししている日々。そのピアノレッスンを受けているとき、鋭い女性の悲鳴を聞き、現場のカフェを覗くと、殺害した女を抱きしめる殺人犯を見る。警官に促されるまで
死んだ女から離れない男を目の当たりにみて、ジャンヌの心が揺れる。「あんなふうに愛される女性もいるのだ!!」

激しいショックを受けたところにジャン・ポール・ベルモンドが、殺人事件の裏事情を話して聴かせるという立場でジャンヌの心に入り込み、つかの間の恋が始まるーー。7日間後にジャンは退職して街を去る。残るはジャンヌの悲痛な悲鳴。あの殺された時の女のような悲鳴。

白黒映画。『第三の男』そっくりの黒と白の陰影が際立つ映像。顔の表情をアップした長いカット、寒々とした並木や石垣、海の色。ずっと流れるモデラート・カンタビレーの音楽。ゆっくりと、劇的なシーンは一つもない展開。世の中の片隅で燃える女と男の素顔のかけら。フランス映画は、こんなふうに人生にありがちな出来事を淡々と映した映画が多かったなとつくづく懐かしかった。

余談ながら、レンタルDVD屋さんは、過当競争らしく、こういう映画を100円で見せてくれる。それにしてもレンタル屋さんには往年の名画をつぎつぎ制作したフランス、イタリア映画の在庫が少ない。映画の世界はハリウッドが席巻して、そして力をなくした。

教員採用で懸念すること

報道によると、大阪府の橋下知事は、府教委管轄の教員採用試験制度のうち、北摂5市町(池田、豊中、箕面、豊能、能勢)にその制度を移譲する条例を提案することを決めたそうだ。移譲するのは採用試験、異動、管理職試験などの権限と言われる。なんで、こんな権限を特定の地域に移譲するのか、その必要性がわからない一口に言って地域の特性を生かした人材の確保をしたいうとことらしい。理解しがたい施策である。府下一律の教員採用で、どんな障壁があるのか。

狭い大阪で、北摂地域の大阪人が特別であることはなにもないだろう。同じものを食い、同じように話し、考え、生活習慣一つとっても他の府下の地域と変わりがあるわけがない。地域の特性に合わせた地域型資質の教員人材がいるとは思えない。北摂にあるとしたら、河内や泉州にもあるという論法になるが、そういう地域特性教員がいるとは思えない。少しがんばれば通勤だって府下全域が可能な狭い自治体である。だいいち、地域特性という狭い了見なら、仮にも北海道や九州から教育に情熱を持つ受験者が来たら、どうするのか。排除するのかな。このグローバルな人材養成が時代の要請というのに、教える側が狭い地域特性に立つ教員ばかりというのは、大いなる矛盾じゃないのか。

にも関わらず移譲するのは、一つは府教委が仕事量を減らそうと考えたことだろうか。しかし、役人が既存の守備範囲をわざわざ狭くしたがるわけがない。役人は既得権と前例踏襲で生きているのだ。

だとすれば、何にでも口を出したがる知事の思いつきであろう。知事の権勢、力の誇示の一つとして、数ある人事権の一つを「お下げ」しようということか。

という懸念を持つのは、昔も今も教員採用試験には不祥事がつきものだからだ。教員職は安定した仕事で、それなりに社会的評価もあるので、おおむねいつの世でも求職者が多い職種である。これを教育委員会、実質は首長部局が握っているため、採用汚職、昇進不正が絶えない。議員連中にしても、就職世話というのは、いちばん固い票田になるから、こぞって売り込みに躍起となっている。。

筆者も昔、さる県の教育長室に出入りしていて、見聞したが、地元有力者、県議あたりからの口ききが殺到しており、その情実リスト作りを秘書がやっていたものだ。大阪府でも今の大教大がが旧師範、旧学芸大だったころからの派閥争いで採用不正があり、幹部が逮捕されるような不祥事がかつてあった。3年前には大分県教委で現職校長が絡む大掛かりな採用、昇進不正が起きた。人事権に絡む贈収賄事件である。なにも大分だけでない、ここ数年でも徳島でも大阪でも宮城県でも起きている。

こうした「美味しい話」がつきものの採用や昇進の権限を小さな市や町に移譲すれば、失礼な話だが、その利権をめぐって、早晩、縁故採用、情実人事を伴う不祥事が起きるようになるにちがいないと推察する。移譲されることを北摂地域自治体が歓迎しているのであれば、なぜ煩雑な業務の受け入れを歓迎するのか、よくわからない。自治体にとって教員採用試験制度を取り込めることで、どういうメリットがあるのか分からない。

教員採用の基本は児童生徒の教育上の利益を図ることが、いちばんの視点。自治体の権限を増やすことではない。取り越し苦労と笑われそうだが、もし移譲が実現するのなら、よほど厳正公平な運用組織が望まれる。

さらなる報道では、知事は君が代斉唱に加わらない教職員は、免職を含む懲戒処分にする案件も検討中といわれる。

この知事の、この強権的な姿勢は、危ないな。選挙で選ばれたことと、万事が白紙委任されたということとは違う。国旗国歌に関する法令がきまったとき、付帯意見として、内心の自由を損なわないとつけたはずだ。権力者はそこを謙虚にわきまえないと、全体主義の道をつっ走った過去の独裁者の轍を踏むおそれがあるな。

ヤツを仕留めた

オバマ大統領は、深夜に緊急会見を開き、3・11世界貿易センター爆破事件の黒幕、ビンラディン容疑者を「仕留めた。射殺した」と発表した。淡々とではあるが、これまでの経過と戦果を自慢げに語る部分もあった。はやくも、これで再選は堅いという政治的な論評が出ている。

大統領の発表を聞きながら、ある種の強い違和感があった。なぜか。やはり最強の国家、アメリカのトップが敵対する首謀者を見つけ出して、ウムを言わさす殺したことを自画自賛する態度にある。国家対国家の戦争であれば、敵対国の為政者、戦闘員、領土、軍事施設等をせん滅するのは、従来の戦争の実態であるが、今回の敵はテロリスト。

テロの首謀者が潜伏する所在地を突き止めたのであれば、第一義的には、生け捕り、つまり身柄拘束ではないのだろうか。そのような生やさしい戦いや突入劇ではなかったのかもしれないが、マスコミが図らずも、従来から容疑者呼ばわりしているように、ビンラディンは未曾有の破壊工作の指導者であるとしても、犯罪の容疑者である。ブッシュ元大統領は事件発生時に「これは戦争だ」と叫んだとされているが、いわゆる国家対国家の戦争ではないのである。

アメリカは対イラク戦争では、最後までフセインを逮捕、起訴、死刑判決という司法処理をしている。大量の犠牲者が出た大惨事だったとはいえ、国民の憎悪の対象者、国家の安全保障の邪魔者なら、撃ち殺せ、という処理の仕方を見ると、これは、まるで先住民せん滅や、早打ち自慢の悪漢を退治する西部劇ではないか。。

ビンラディンが、あの事件を起こした首謀者であれば、寸毫のシンパシーも持たない立場ではあるけれど、最高の先端軍事力を持つアメリカが、西部劇的というか、忠臣蔵の討ち入りのような、古臭い手法で、敵を討取ったことに、違和感がある。初めから殺害ありき、というのは、いかんぜよ!。弁明の機会を与えずリンチ(私刑)してしまったやり方も西部劇のやり方であった。民主主義というのは、まどろっこしいけれど、適正な手続きを踏む体制なんであると思う。

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