ミサイル騒動

北朝鮮が人工衛星と称するミサイルを発射するという騒ぎが、事なきに終わった。当たり前であろう。騒ぎすぎたのである。騒ぐことで、この際、存在意義を誇示しておきたい連中と組織がいるのだろう。

その後、インドも弾道ミサイルを発射した。こちらも北京や上海をゆうに射程距離にできる弾道ミサイルだそうだが、北問題で騒いだ連中は、知らんぷりしている。

ここで異を唱えたいのは、なんで北朝鮮のミサイルはあれだけ非難轟々、マスコミも大騒ぎしたが、インドの発射には、まったく冷静、報道も事実を短く報じただけ、政府に至ってはコメントさえ発表しなかったし、自衛隊の反応もゼロでした。

この差はなんなのか。はじめにお断りしますが、北朝鮮のキム王朝三代にわたる世にも不思議な”ならず者国家”を支持しているわけではありません。こんな体制の国家は一日も早くリフォームした方がいいと思っています。しかしながら、同じミサイル発射実験について、北とインドで、ここまで温度差があるのは、頷けない話です。国際的な公正さを欠いていると思います。

こうした差が生まれるのは、簡単は図式が描けます。北朝鮮は国際社会に残る数少ない社会主義と計画経済を柱とする異端国家。自由主義国家群にとって、体制の敵であり、一方のインドは民主主義と市場経済を取り入れた国家で、現在国際社会の流れに同調しているからである。「仲良し仲間」か、「けんか相手」かの違いです。

政治的に相容れない国のミサイル実験は許さないけれど、仲間うちのミサイル実験には目をつぶる。かつて核実験でもそうだった。アメリカやフランスの核実験はやむ得ないが、ソビエトや中国のそれには大反対。さらにはクリーンな核実験とそうでない核とがあるなどと、まことしやかに核実験を行う理由を正当化したものだ。本来、核そのものについては政治的色あい抜きに危険なのですが、、、

インドが撃とうが、北朝鮮は撃とうが、ミサイルはミサイル。なぜ国際社会や日本政府は、かくも裏表があるのか。毎日紙のワシントトン特派員のレポート(フォーサイト電子版、4・17)によると、北の発射前に開かれた主要8ヶ国外相会議では、当面の国際問題について6時間の議論が行われたけれど、北のミサイル非難はたった30分の論議にすぎず、残る大多数の時間は反体制弾圧が続くアサド政権のシリア情勢、イラン問題、ミャンマーの民主化問題に向けられたそうだ。

この会議を日本のニュース報道は、北朝鮮の問題を大きく報道し、あたかも世界中が北朝鮮の無謀実験に怒りをあらわにしているかのように伝えられているが、ほんとうは世界の関心はシリアやイラン問題に比重がかけられているのだ。

北のミサイル実験というのは、極東の些事であるかのような国際的関心にあるのだ。北の無謀な実験について日本政府は、国民の安全安心に意を払うのは当然であるが、今回のように日本の領土領海をひょっとしたらかすめるかもしれないけれど、しかし、予め、たいしたリスクがおきるとは思えぬ事態にもかかわらず、リスクを煽る本当の狙いは、

北朝鮮がいかに無軌道な悪性国家であることを宣伝したい
日米の軍事共同戦線が即応態勢にあるかどうかの訓練
自衛隊の防衛行動の実地訓練
にあることが疑いがない。

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ちょっと冷めた目で見れば、北が公表しているミサイル飛翔コースであれば、日本領土に着地する恐れも、ロケットの部品が落下する危険性も少ない。なのに、自衛隊が多くの部隊を動かして、モノモノしい地対空ミサイル迎撃戦略を展開する必要はない。あったのは、過剰な危険宣伝のもとに国防意識の高揚とか沖縄を守っているとするパフォ-マンスであろう。

インドの弾道ミサイル実験は、核搭載可能な射程距離5000キロというから全アジアを含み、むろん日本領土に届く。インドの開発は敵対するパキスタン、中国への抑止力と見られているが、日本は標的とされる心配はないから、ミサイル開発はいいんだというのは、不公正であろう。実際には隣のパキスタンとインドの「仲良し仲間」同士の確執は危うく、インドのミサイル開発は新たな火種になる恐れがあります。

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ミサイルも人工衛星も打ち上げにロケットを使う。ロケットの殺傷破壊力を備えた武器を搭載すれば、弾道ミサイルであり、宇宙の軌道に乗り、地上になんらかの情報を送るものであれば人工衛星である。その差は、実地検証しなければわからない。北朝鮮は、過去に人工衛星と称して弾道ミサイルを発射したことから、国連安保理は北朝鮮に限って、ロケットそのものの打ち上げを禁止決議している。もちろん北朝鮮は受け入れていない。

弾道ミサイルのような大量破壊兵器について、その運用や理解が、これほどご都合主義という認識は、いつまで続くことか。果てしない不毛な問題提起のようで、虚しい話ですけどね。
                                         (写真はGoogle)

西部劇二本

DVDで久しぶりに昔の西部劇映画を見ました。子供の頃から西部劇を見て育ったクチですから、いまもって西部劇は楽しく、懐かしい。アルコール付きの気分転換にもってこいと思っています。

子供のころの西部劇は、白人とインディアンとの戦いが主要なテーマ。白人は善人、インディアンは悪漢とされて、悪漢の横暴極まる振る舞いに立ち上がる騎兵隊や白人の拳銃使いが必ず勝利するという構図でしたね。突如、奇声を上げて襲撃してくるインディアンを、どうやっつけるか。ワクワク、ドキドキしながら見ていました。

なんで、インディアンはわけもなく殺されるのか、なぜ、インディアンは父祖の土地を追われるのか。なんで、インディアンは、悪賢く汚く妙なカッコウをしているのか。そういう思索的な考えは一切ないままに見ていましたが、振り返って見て、言い訳めきますが、当時はそれは製作するハリウッドでもアメリカ人のなかにもほとんど配慮されていなかったと思います。

ところが、西部劇が、白人側の一方的な先住民への人種差別迫害、人権意識の欠如という観点から見直される時が来ました。その転換点になった映画の一つは1970年製作の映画「ソルジャーブルー」ですね。正しく善をなすはずの騎兵隊によるインディアン大虐殺をインディアン側から見た映画で、騎兵隊がヨチヨチ歩きの子供や母親まで皆殺しするシーンは、アメリカ人に大ショックを与えたと言われています。騎兵隊が太刀を振るい、子供の首がふっとぶ場面に胸が塞がれた記憶があります。余談ですがあ、キャンデス・バーゲンといういい女優が出てましたね。このころからインディアンを敵とする西部劇は急速に姿を消してゆき、やがて西部劇というジャンルが衰退しました。

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今回見た二本は、ですから、開拓時代の西部を舞台にしていますが、インディアンは登場しない。『大列車強盗』(1973年)の方は,亡夫が奪って隠した50万ドルを探しにきた若く美しい未亡人。これをアン・マーグレットがやっている。流れ者の拳銃使い、ジョン・ウエインが未亡人を追ってきた横取りを狙う一味と激しい銃撃戦をした挙句、金を見つける話。メデタシ、メデタシの最後にこの未亡人がとんでもないクワセモノという結末がある愉快な西部劇。あのカッコいいジョン・ウエインが、道中、未亡人に淡い恋心を持つが、もうトシだと腰が引けている役どころが珍しい。

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『夕陽の挽歌』(1971年)。こちらもウイリアム・ホールデンが初老のカウボーイ役。晩年はメキシコで自前の牧場を持ちたい夢を持っている。牧場仲間が馬に蹴られて死ぬ。カウボーイ人生に虚しさを感じているとき、気が合う若造のカウボーイにそそのかされて、一生一代の銀行強盗をやり、大金を奪って逃走する。モンタナからメキシコへ、追っ手をかわしながらの大逃走。西部の雪景色、夕日、佇立する大岩など大きな景色が美しい。叙情あふれるカメラワークがいい。途中で撃たれた若造を馬に引かせる担架に乗せて続ける逃走、やがて若者は苦しみながら死ね。独り身になって逃げる初老のカウボーイは、とうとう追い詰められて撃たれて落馬、草原のなかで息絶える。

どちらも、当時のハリウッドを代表する俳優が登場して、勧善懲悪や赫赫たる戦果を上げる、大成功をもたらす話ではないところが面白い。フランス映画が好むような味わい深い人生ドラマであります。このころからたまに作られる西部劇は、インディアン退治という主題から遠く離れて行きましたね。

インデアンは悪人などという先入観で作られた西部劇。それを当たり前として楽しんでいた西部劇フアン。よくよく考えれば、当たり前にしてはならないことを、当たり前としていることが暮らしの周辺にもあるに違いない。例えて言えば、原発は安全というような思い込みと同じものですね。

橋下サンの本を読んで2

橋下サンの本、『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』を読んで、呆れましたね。彼が現在あるのは、このようなあくどい交渉術を駆使して、おおかたの有権者の皆さんに何かしらの期待感を持たせているデマゴーグ(煽動的指導者)であることが、よくわかります。

彼は自分の施策、方針、計画、検討課題は、ミン、ミン、ミン、ミンイの表れと夏のセミのように唱えています。「選挙で勝てば、民意から白紙委任を受けたようなもの」と言い切っています。

選挙制度は、有権者の一票の集積の結果、政治の方向を政党なり、政治家なりに任期限定で委嘱するシステムですが、全権を委任するものではありません。政党や候補者が掲げた公約の枠内を支持したものとされています。なんでもかんでもお任せしたものではないのは、当たり前のことですが、彼はその道理には知らぬ顔をしています。

また、どのような選挙でも、いわゆる少数派が出ます。政治的判断における多数派と少数派というのは、ゲームの勝敗者ではなくて、ある時点での政治的見解の相違であって、変更や交代可能な手続きが残されている判断の違いです。したがって、多数派は常に少数派の存在と見解を留意しなければ政治は回りません。

というようなことを踏まえて、橋下サンの本『まっとう勝負!』(06年 小学館刊)を読みました。この本は週刊誌に連載された読み切りの一文を本にする際、構成を編集し直したものです。中身は、その時々の政治や社会など多岐にわたるトピックや問題について、ほとんど一刀両断に橋下流の判断で解釈してみせたものです。

彼は知事から市長に転身して大阪都構想の実現を目指す政治家ですが、その政治家というものについて、彼は驚くべき異様な考えを持っています。

「政治家のウソは政策に関連してのみ罪としろよ!」と題した章の以下の一文です。(121ー122ページ)

「なんで「国民のために、お国のために」なんてケツの穴が痒(かゆ)くなるようなことばかりいうんだ!政治家を志すっちゅうのは。権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉しなければならないわけよ。、、、別に政治家を志す動機づけが権力欲や名誉欲でもいいじゃないか!だって人間、人のために自分を犠牲にできる奴などなかなかいないよ」

彼はこのように本音では国民を愚弄する考えの持ち主です。彼が政治家になりたい動機づけが、ここに集約されています。要するに権力と名誉を得るために政治家になっているわけで、国民のためなどはケツの穴が痒くなるものは付け足しだと断言しています。国民のため、お国のためなどは、「嫌嫌」するもんだと書いています。

橋下サンに何事かを期待し一票を投じた多くの有権者は、結局、橋下サンにバカにされていることを表しています。「嫌嫌のケツの穴」扱いされています。彼は過激な競争原理主義者で、人生の覇者は競争に勝ったものにあると信じています。彼からケツの穴と見下されていることも知らず、彼を支持しているのは、なんという悲喜劇なことか。ニートやフリターや安月給のサラリーマンや零細企業で奮闘しているよう者は、彼からみれば、人生の落ちこぼれとされているのに、そんな人々が皮肉にも彼を支持しています。


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 彼は大阪府の知事選(2008年)に立候補を「2万パーセントありえない」と大ウソをついた一週間後に出馬した。ちょっと横道にそれますが、橋下サンのやり方をよく暴露したエピソードが、最近の『サンデー毎日』(4・8増大号)にスクープされました。記事によれば、知事選の告示後に彼は二回に分けて自民党府連に合計1030万円の寄付をしているとのこと。同府連はこれを所属議員に分配したという。彼は無所属で立候補していますが、自民党から推薦を受けています。巨額の寄付をしているのは、なんのためか、子供でもわかる裏工作です。

この寄付は橋下サンが個人的に政党に寄付したものなので、公選法違反(買収容疑)に問われないそうですが、誰が考えても、この時期のこの巨額寄付は、選挙戦を有利に進めるために行われたものであることは間違いありません。なんでも得意げに喋りまくっているはずの彼は、この裏工作について、この記事で露見するまで、一言も話していません。そのあげく橋下サンは自身のツイッターでは「バカ・サンデー毎日、文句あっか」と居直っています。まことに品位にかける汚い男です。市長選への転身でも、なにかずるく立ち回っていることが、いずれ明るみにでるのではないか、と思わせるやり方ですね。

こういうこす辛い世渡りを彼は好きらしく、この本にも、それを賞賛している記事が出てきます。
「ルールをかいくぐるアイデアを自己規制したら取り残されるぜ」(206ー211ページ)。

彼は高校時代にラグビーで全国大会に出場、ベスト16校に残ったことを自慢しています。その時の戦い方ですが、ラグビーは両チーム8人同士がスクラムで押し合うことが重要なポイントですが、彼のチームはスクラムでの押し合い避ける「コペルニクス的大転換!」(彼の表現)戦術を採ります。つまり、本来8人ずつで組むスクラムを7人で組み、余った1人は、スクラムハーフがボールを入れると、すぐにスクラムからボールをかっさらってバックスにパスさせる。そんな攻め方はそれまでのラグビーにはないので、相手フォーワードはあっけにとられて、遅れをとってしまいます。

こんなやり方は適切でない、ラグビーのスクラム本来の意味がなくなるという声が強まり、翌年からルール改正、スクラムは必ず8人で組まなければならなくなった。当たり前だと思います。

つまり、橋下サンたちのチームは、ルールが規定していなかったスキをついたものです。このルールのスキを突くという悪賢いやり方に味をしめたらしく、彼はこう書いています。

現在の世界は激烈な競争社会。なんとなくの暗黙のルールに縛られて自己規制していたら、アッという間に取り残される。明確なルールのみが行動の基準であって、明確なルールによる規制がない限りは何をやっても構わないんだ」

「ルールに違反していたのであれば、それなりに罰せられなければいけないけれど、道徳や倫理を持ち出して非難することはナンセンスだよ」

「ルールの隙を突いた者が賞賛されるような日本にならないと、これからの国際社会は乗り切れない」


前述の知事選さなかの自民党への巨額寄付も、ルールのスキを突いたものです。彼は弁護士稼業ですから、法令やルールについて知見を持っているはずですが、その知識経験でもってルールや法令の裏をかくことこそ、競争社会の勝者への道だ言っているわけです。もうこれだけで、とうてい友人にしたくないワースト1のような人物ですね。つまらない本を読んでしまいました。


                        (文中、太字にしている部分は本の表示通りです)


橋下サンの本を読んで。その1

目下、一部の人たちやほやされて権勢を誇る橋下サンは、どんな考えを持った人物か。

街頭演説やTV番組での言いっぱなしでは、よくわからないところがある人物です。彼に著書が四、五冊あります。そのうちの二冊を図書館で借り出せたので、さっそく読んでみました。率直に言いまして、この二冊の本のような気分の悪くなるような読後感を味わった本はありません。読む側としては、どうしても、彼の今の立ち位置と照らし合わせながら読むことになります。これらの本はもう彼が世に出る処世の手法を詳しく書いたようなものです。その読後感を交えて本のポイントを紹介します。

いまさらながら、橋下サンは、一口で言えば変わり者。学問や芸能に天賦の才を持つ人物が、しばしば変わり者のように見られることがありますが、彼の変わり者ぶりというのは、性格の異常な偏りを思わせます。彼は自分本位に功利的に振る舞い、他人に勝つことが人生あるいは社会の成功者だと信じていることです。目的のためには手段を選ばず、そうして得た力で優位性を自慢したい。他人を攻撃することで自慢したい、そういう特異な自己顕示癖があることが著作から窺えます。

読んだ二冊の本は
『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術ーーーかけひきで絶対負けない実戦テクニック72』(03年、日本文芸社刊)。
『まっとう勝負!』(06年 小学館刊)です。

まずは前者の本ですが、このタイトルには、たまげます。まるでマルチ商法の勧誘か、三流週刊誌の見出しのような惹句です。こんなあざといタイトルを自作につけるところに彼のインテリジェンスや感性のレベルをしのばせますね。

ほかにも『図説 心理戦で絶対負けない交渉術』(05年 日本文芸社)という同じようなタイトルの著書もあることから推測されることは、彼は人に絶対負けない交渉術ということに、大いにこだわりがあるらしい。今の彼の巧妙な弁舌というのは、自らの本の実践という感じです。高飛車なモノ言い、大言壮語から始める話法、その結果を責任転嫁したり、はぐらかしたりすることに多大の自負心を持っているのも、本の内容と一致します。

『最後に思わず,,,,,,』の本は、「まえがき」にこうあります。普通のセンスを持つ人なら、もうこのまえがきだけで、読むのを止めるでしょうね。

「相手を思い通りに動かすかけひき論、約束を反故(ほご)にし、相手を言いくるめてゆくレトリック、自分のペースに引き込む話術のポイント、ピンチを切り抜ける切り返し術などさまざまな方法論を具体的に説いていく。これらは巷間耳にする心理学者や大学の先生方が書かれている交渉論とは一線を画す、より実戦的な交渉術であると自負している」

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つまり、これは彼が弁護士でやってきた依頼人のためなら騙しあり、ウソありの手口集ですね。ですから、目次を見ますと、唖然とします。

第一章「脅し」と「利益」。絶対負けない”かけひき”術。かわす、攻める、追いつめる、、、レトリックで攻防を制するセオリー。

第二章 まんまと相手を言いくるめる逆転の交渉術。ありえない比喩、立場の入れ替え、、、相手を錯覚に陥れる詭弁の極意。

といった調子で、要するに、詐欺にならない範囲でなら、なんでもありという論法。普通の人間関係で生きている者、フツーの暮らしをしている常識人には、到底使えるものでない交渉術。まさに。タイトル通りの詐話師が使うようなエゲツナイ内容です。

「交渉においては相手方をだますこともときに必要だ。この本で紹介している仮想のメリットの提示などは、言い換えれば、だましである。交渉の過程でこちらにとって経済的に損失を伴わないものの、相手にとっては得になるようなことを作り出す。そのうえで、あたかも無理に無理を重ねた譲歩であるかのように相手方に差し出す。だましには違いないが、これが私の交渉術の根幹でもある」(88-89ページ)

そのためには、一度OKしたものをノーと言ってひっくり返す、約束したことも前提条件を後だしして反故にする。白を黒といいくるめようなレトリックを使い、詭弁を弄す。場合によっては”言い訳”も”うそ”もありだと書いている。赤字にした部分のように「私の交渉術の根幹」というから、異常ですね。

弁護士として、依頼人が望む示談を有利にまとめるためのトンデモ交渉術のようである。一般人にはこのようなあくどい手法の弁護士に相手を丸め込んでほしいなどいう交渉を依頼することはまずないから、この本をいくら読んでも、手口に呆れはするものの、役に立つものでない。読んでいると、分かってくるのは、このような論法と滑舌でもって、彼は有権者を、もしくは国民を手玉に取ってみようと、政治家を志し、実践していいるのではないか、という疑問が強まることである。

ちなみにエイプリルフールの4月1日。ツイッターにこんな書き込みがありました。

「橋下市長は、思慮深く、寡黙で、誠実で、人望が厚く、何があっても決して人のせいにはせず、責任感に溢れている。音楽、芸術に造詣が深く、知的である。そして、いつも自分のことより、市民のことを優先的に考える素晴らしい市長である。#エイプリルフール書いてて悲しくなった」

つまり、橋下サンの本性は、すでに心ある方たちから見抜かれていますね。

あと1冊については、稿を変えて書きます。



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