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内視鏡の検査

内視鏡による大腸検査をうけました。
その結果はどうなのか、不安な気持ちを抱えて病院へ行きました。

検査では大小七つのポリープが見つかりました。そのうち最大7ミリのポリープをはじめ四つを切除、病理検査に回すと言われていました。いずれも「良性」との診断で、胸のつかえがおりました。

なにしろ父、兄、妹、わが娘らみんな、がんを患う血筋ですから、内心は戦々恐々です。ひとまず、大腸がんの危機は遠のきました。ついでに、B、C型肝炎やエイズ、梅毒の検査もやってくれていて、これらも、すべて「陰性」でした。

この日は三月ごとの定期健診をしている日と重なりまして、検査結果を聞くまえに、採血、尿検をしましたが、気がかりな血糖値、高血圧、尿酸値、またへモグロミンA1-Cも基準の範囲内と分かりました。

つまりは、老体は老体なりに、ひとまず健康寿命を保っているのかな。すこしばかり安堵しました。閑人は、とくに長生き願望という熱意を持ち合わせません。成り行きで結構と思っていますけれど、成り行きの過程で、とりわけ痛み、苦しみを伴いつつの長生きするのは御免蒙りたい、という願望はあります。

内視鏡による大腸検査は、これで三回目です。ここ数年間で二度も腸閉塞に苦しみ、入院しました。腹部の膨満感とともに猛烈な痛みを感じさせる、イヤな病気です。

なんで腸閉塞なんかになるのか。医師は言います。一般的には過去に開腹手術を経験したりすると、その後も癒着が起こりやすいと。

この検査をやった方はご存じでしょうが、要は検査前に、滞っている便を一掃して、腸内をすっからかんにしなければなりません。内視鏡がよく見える環境つくりです。

これが、まことに厄介、面倒。病院から事前に渡されたレジ袋いっぱい分の薬剤と、おかゆ食と、下剤を術日の前々日から決められた時系列で口に入れていきます。前日には朝、昼、夕食すべて妙な味のおかゆです。

すっからかんにするための食事。矛盾した効果をだすために処方された、なんともまずい薬膳です。酷暑きびしいおり、健康体の者でもしのぎにくいのに、ひんぱんにトイレ通いとは、やってられない苦行。当日朝には、下剤の粉薬を溶いた1800リットルの水を1-2時間内に飲みます。もうほとんどトイレ往復状態です。

内視鏡の術式では、鎮静剤を使ってもらい、昏睡してましたが、ポリープが多くて、二時間近くかかり、終わり近くでは意識が回復し、目前のモニターに映るわが腸内を移動する内視鏡、ポリープを針金の輪っパ(ポリペクトミ―)で切除するイタイ瞬間を眺められました。

結果待ちの間に内視鏡による大腸ガン検査の特集記事で、高齢者の腸は弱く、薄くなっているので、穿孔による出血などで死亡リスクが高いというデータを知りえていましたので、今回で、わが余生の最後の検査になればいいと思いました。

なのに、医師は、小さいポリープがいくつもあるようだから、毎年一回、夏の恒例検査にしたら、と笑ってました。

戦争体験のこと

国民の大多数が先のアジア・太平洋戦争を実際に体験した者でなくなりました。戦争を知らない世代が圧倒的な人口構成です。つまり、戦争体験者は、急速に減っていく「絶滅危惧種」と同じく、風前の灯とあいなりました。

したがって、悲惨な戦争を語り継ぐ人もまた、早晩いなくなるでしょう。大切なことは、総員滅亡するまえに「戦争しない国」である基盤を再構築しておかなければなりません。

閑人は敗戦の昭和20年に、国民学校初等科一年生(6才)でした。実戦の体験はむろんありませんが、子ども心に非常に怖い経験を一度味わった記憶があります。

それは白昼、公然と人殺しが可能な戦争という巨大な蛮行のほんのかけらに触れたような体験ですが、直接触れていたら、その時、死んでいたことになりますから、一瞬の運命の差にすぎません。6歳児でさえ、戦没死する羽目になるのが、戦争の実情です。

当時、母方の実家がある岡山県の郡部で、今は倉敷市内に編入されている田舎に疎開していました。そこで学校の登下校中だったか、あるいは、遊んでいたときか、そのあたりはあいまいな記憶しかないのですが、集落から少し離れた、周囲は田んぼの地道でした。よくミカンを運ぶトラックが往来していた記憶があります。

そこを歩いていた時、轟音とともに米軍のグラマン(戦闘機)が一機、後方から頭上に飛来してきて、物音がはじけるような機銃掃射をして飛び去りました。とっさに道端に倒れこんだ体験があります。

今回、その記憶はいつのことだったか知りたくなってネット上の幾つかの記事を調べました。よくしたもので、いろんな資料があることがわかりました。

それらによると、当時の岡山県内に空襲が最初にあったのは、敗戦の20年4月22日早朝、三井造船所があった玉島でした。この時は、比較的小さい規模の空襲だったようです。

次に爆撃されたのは、6月22日深夜のことで、、三菱航空機工場があった水島臨海部(現、水島コンビナート付近)を中心とする工場が標的にされて、約一時間も続いた破壊的な大空襲です。

そして同29日深夜、県庁がある岡山市内に壊滅的な被害を与えた、いわゆる「岡山大空襲」(*1)がありました。先の二か所は明らかに軍事拠点を狙った戦略爆撃ですが、岡山市内のは、無差別空襲です。約2時間も焼夷弾が”雨あられ”状態だったとあります。

300px-Okayama_after_the_1945_air_raid.jpg
(焼野原になった岡山市内の中心街)

この本土への無差別空襲は、3月10日、東京大空襲をはじめ、同12日名古屋、13日大阪、17日神戸と続き、岡山へと続いた主要都市爆撃の一環と考えられています。

岡山県内の主な空襲は、この玉島、水島、岡山市内の三か所です。いずれも早朝か、深夜とありますので、日中の体験だった閑人と記憶とぜんぜんそぐわない。また、これらの空襲は主に100機を超すB29爆撃機の編隊による大型爆弾や焼夷弾の投下によるものだった点でも記憶と異なります。

そうすると、閑人の記憶は白昼夢か、その後、本を読んだり、見たりした映画などの影響を受けていたのかと自問します。しかし、確かな体験でしたので、さらにネット上をチェックしました。

翌月には広島の原爆が投下される間際の時期ですから、すでに日本側の制空、制海権は完全に奪われており、岡山大空襲では、事前の警戒警報は一切発せられておらず、一機の迎撃機が飛び立つこともなかったとあります。(*2)

そんな状況のなかで、四国沖の太平洋上にある空母シャングリラ、同ヨークタウンなどから飛び立った艦載機であるグラマンの大編隊が7月24、25.28日の三日間、米子、境港攻撃を実施しています。美保航空基地などを狙った攻撃です。(*3)

いずれの日も早朝6時くらいから攻撃が開始され、破壊活動のあと、中国山脈を越え、瀬戸内をまたぎ、およそ一時間半くらいで母艦へ帰投できたと想定されます。

この三日間の攻撃の最初にあたる24日、グラマンが岡山県南西部の操車場や運航中の列車を狙って機銃掃射。、乗客40数人が死亡という攻撃がありました。この攻撃がなにを目的にしてものか、わかりませんでしたが、日本海側の都市攻撃後に戦闘機が帰艦途中に機銃掃射をしたのではないかと見ると記録があります。(*3)

いまのところ、残念ながら、この南西部という場所が、閑人が疎開していたところ付近かどうか特定できませんが、こうした個別散発的的な攻撃は普通に行われていましたので、閑人が遭遇した唯一の戦争体験は、このときのことであったかもしれません。あるいは、パイロットの気紛れな遊び撃ちだったかもしれません。

なぜなら、当時、日本の空を思うがままに飛び交い、戦意が高揚したと見られるグラマン戦闘機のパイロットによる非戦闘員、非軍事施設などへの機銃掃射は数多くあり、多くの住民が犠牲になっています。

必ずしも戦略的な攻撃ではなく、パイロット自身の脅し、思いつきや気散じのために恣意的に撃ちまくったということは、よくあったらしい。飛行ルートを逸れて民家の屋根すれすれに低空飛行しながら機銃掃射するグラマンを目撃した人も数知れません。パイロットの笑い顔が見えたという目撃証言はいくらもありました。

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ところで、当時からずっと、アメリカの戦闘機をグラマンと言ってましたが、今回調べてみると、これは航空機メーカー名で、当時のグラマン社製戦闘機の総称でした。日本の空を飛びまわっていたのは、コルセアと、その後発のヘルキャットだということも知りました。つまり、コルセアは海賊、ヘルキャットは地獄の猫です。

実体験は、以上のようなことです。終戦直後から朝鮮戦争が終わったあとも、いまのJR大阪駅付近で少年期を過ごしました。駅前は当時の表現でいえば、乞食や浮浪者がごろごろ寝ていました。

迷路のような闇市がはびこり、日が暮れると、パンパンと米兵が路上で性行為をする場面もしょっちゅう見られました。それは、もう語りつぐのもおぞましい悲惨、荒廃、猥雑な戦後の世界を見聞しました。

戦争なんてやるうもんじゃない、戦争はこりごり、戦争はいや、、、それは、その通りなんです。だが、戦争をやりたがる為政者を選んだり、そいつの言うことに賛同したり、なかには、儲かったり、立身出世につながったりするために、戦争ができる国にした方がいいと思っている連中もいっぱいおります。

強者に一斉のなびき、過剰な忠誠心を競いあって保身の励む。そんな連中は「アベ一強」で押し黙る自民党議員や忖度官僚を見ての通りです。恐ろしいのは、国策を誤る為政者と、それにすぐ同調する大方の国民なのです。コイズミやハシモトや、あるいはコイケに熱狂したのは、つい先ごろのことではありませんか。

こうした国民性であるなら、なんとしても、そんな為政者を選ばないためにあらゆる手を尽くさなければなりません。戦争しない国にしなければ、絶滅危惧種にある世代は浮かばれない。

当面は、まず戦争できる国こそ国際社会のリーダーだ、世界の大国だと盲信するアベを引きずり下ろさなければなりません。集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしたアベは、トランプの要請があろうとなかろうと、アメリカにすすんで人身御供を差し出す決意をしています。どんなに控えめにみつもっても、これで「戦争しない国」と強弁するのは破たんしています。

野党は、一体、なにをしているのか。「アベ打倒」、この一点に向かって、小異を捨てて大同し、戦う時です。

(写真がWikipediaから引用)

*1   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
     岡山大空襲

* 2  http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/chugoku_02.html
     総務省 岡山市における戦災の状況(岡山県)

*3  http://www.yonago-toshokan.jp/files/19081.pdf
     ふるさと米子探検記

続くぬかるみ アベ3選

自民の派閥、タケシタ派が、次期総裁選ではアベか、イシバか、あるいはノダか、だれを選ぶか、すったもんだの末、自主投票と相成りました。泥船内の嵐です。

実際には、初めは派閥重鎮のお声がかりでイシバ支持で行こうとしましたが、衆院議員にアベの顔をうかがう者が多くてまとまらなかったので、やむなくというものらしい。これでは総裁選後、同派はお家騒動が避けられないだろう。

イシバは名うての国防オタクです。改憲論者で、9条についても2項を削除、新たに国防軍への転換を主張しています。護憲の立場からは、とうてい容認できない人物です。

だが、少なくとも政策遂行に民主的な手順を尊重する、民意を重視する姿勢はアベとは違うようです。当たり前の政治をすすめる度量はもっていそう。この点では、アベよりはるかに良識の人であるようだ。

総裁選は、一般国民には投票権がありません。自民の国会議員と地方党員のみで行われます。自民党員というのは、全国で100万人ちょっと。国民の1%にも足りません。

自民党は絶対得票率では全有権者の17%(前回衆院選比例の結果)にすぎない支持なのに、全議席の60%以上を獲得しています。選挙制度のゆがみが利しています。

その歪みに加えて、党員だけで総裁総理を選び、それが一億国民全体に影響を与えるのですから、議員内閣制というのは、現実の運用では問題が多い仕組みです。多数派が。いわゆる政権タライ回しできる所以です。

もはや「戦後最悪の総理」という評価が定着しているアベについて、無知無能さ加減をあげつらうことは山ほどありますが、もはや、いちいち書き連ねるのは、酷暑にどてらを着て鍋焼きウドンを食するような苦行です。愛想もくそも尽き果てています。

とはいえ、ネット上には、こちらの苦々しい思いにぴったし、憤懣を代弁してくれるようなアベ批判の落書があふれています。

力作、労作の作者にはなんの面識もありませんが、おそらくは、ネット上での拡散希望の意図が大ありだと勝手に解釈させてもらい、以下に引用、紹介させていただきました。ご容赦ください。

溜飲が下がる暑気払いにもいいでしょう。

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