裁判員制度

今月21日から、この制度が施行される。レンタルビデオ屋さんに貸し出し無償の啓発ビデオが棚に並んでいるくらいだから、国はよほど熱心に国民に理解と協力を求めているのだろう。

筆者は高齢者なので、仮に裁判員に選ばれても辞退することしている。長い人生で民事は一度、刑事はゼロの裁判経験しかないが、かねてこの国の裁判制度には不信感を持っているので、新しい制度そのものにも疑念がわく。

従来の裁判は三権分立に鉄則に立脚していない印象を持っている。ある裁判官の日常を記録したドキュメントの主人公である裁判官は、その記録のなかで、起訴された事件が無実であるかどうか考えたことがないとゆくりなくも語っていた。この談話が示したいるように日本の刑事裁判は、警察・検察の捜査レベルですでに有罪が確定している。裁判官は心証に基づいて量刑を決めるだけである。これが裁判といえるかどうか。

つまり、裁判にとってもっとも大切な「推定無罪」とか「疑わしきは罰せず」という原則は、いまの裁判制度では、顧りみられていないのである。

民事や行政に関わる裁判では、たいがい政府や大きな企業に有利な判断をしている。裁判官は身分保証されているとはいえ、法務省の大枠のなかでの組織運営、人事権行使であるため裁判官が政権政府に従属しすぎる。偏向判断が多すぎる。公害や薬害や環境権訴訟などで、被害者、つまり国民の側にたった法の解釈がない。

今回の裁判官制度の導入だが、国民の良識、市民的感覚を判断に取り入れることが眼目とされているのが、奇妙である。有識者や専門家の考えを公聴する仕組みは官民ともに多用されているけれど、高度の専門職業従事者が、ズブの素人の一知半解、あるいは三日ないし一週間の勉強会でえた考えを求める理由がわからない。

医師や会計士などの知的職業人、あるいは石工や左官屋や印章屋さんのような職人が、その職業分野でズブの素人の意見や判断を積極的に求めることはありえない。そんなことは職業的修練を積み、身につけているものだ。

こういう観点からすれば、裁判員導入というのは、裁判官には専門職業人として、みんな未熟であると自ら認定しているのではないかと危惧する。どうも一人前の識見を持たないので、周囲で支えてやってほしいということかもしれない。上ばっかし見てないで、しっかりせんかい、と言いたい。

裁判員制度以前に、世間に疎い非常識裁判官、ヒラメ裁判官が生まれる試験制度、研修制度こそ見直すべきであろう。たとえば、司法試験に受かったら、三年間、スーパーやデパート店員など熾烈な現場経験を積ませることの方が、よっぽど人間形成や世知の向上に役立つだろう。年令も35歳以上くらいで任官とするといい。人が人を裁くという神学的領域の仕事に自ら進んで成ったのなら、もっとしっかりせんかい、ともう一度言いたい。

もっとも、こうした制度への疑念よりも、裁判員に強い守秘義務を課そうとしているように、国民の裁判批判の口封じ自体が、隠された狙いだとしたら、開いた口がふさがらないが。

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