8.6に思う

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ヒロシマへの原爆投下記念日に初めて国連事務総長はじめ、初めてアメリカ政府関係者として駐日大使らが参列した。このことをもって、核廃絶へむけて一層の国際的連携と理解が深まったという論調があふれているが、ほんとうにそうだろうか。

最近のアメリカ国内の世論調査によると、ヒロシマへの原爆投下、つまり大量殺戮はやむ得なかったと賛成するのが、6割に達している。戦勝国の国民の、こうた考えは戦後一貫している。つまりは戦争の早期終結、自国将兵の犠牲の最小化、戦後の対共産圏との國際戦略などを見越して、史上初の核保有国が、核の威力を存分に発揮したのは当然だと考えていることだ。

戦争があり、大量破壊兵器の開発競争があり、その死闘のなかで戦勝するためなら、なんでもあり、という戦争のあり方は古今東西からある。たとえば、航空機の発明は、無抵抗の市民を無差別に巻き込む大量殺戮を可能にした。ゲルニカ爆撃、重慶空爆、ドレスデン空爆、東京空襲、、、。平和な市民施設も無辜の婦女子も含めて大量に破壊し、殺す空飛ぶ兵器となった。

日本軍は開戦時の真珠湾奇襲のときから既に帰還不可能な人間魚雷艇を発射している。神がかりな国民意識の洗脳、戦陣訓、玉砕戦法、特攻出撃、人命尊重を一顧だにしない一億総動員。洋の東西の、こうした戦争手段を鳥瞰すると、核兵器を仮にも米国以外の国々、たとえば日独伊あたりが開発に成功していたら、戦争に使わなかったという保証はまったくない。狂気じみた戦闘行為に走った国々である。必ずや、そうであったに違いない。

だから米国の原爆投下が免罪になるというのではない。許されざる非道ではあるが、いったん戦争が勃発すれば、勝てば官軍のことばどうり、非道も無軌道もやり放題となる。國際社会のなかで自国益を守るためなら、いかようのこともやってしまうことも是認する自己中心な人間性を思うと、並みたいていなことでは大量殺戮破壊はなくならない。

第二次世界大戦の大きな犠牲と破壊に立っても、いまだに戦争は悪、やってならない最高の禁忌だとされていない。國際社会は相変わらず「やむおえず」戦争をやっているし、他国の理不尽は戦闘行為をいち早く容認する為政者も出ている。核兵器、大量殺戮破壊兵器の抑止力とは、有無を言わせず相手を黙らせることにある。そういう最大効用を持つ武器を背景にもたらされる世界の成り立ちを。人間社会は求めて築いてきたのであろうか。

8・6にしろ、8.9にしろ、8.15の敗戦記念日にしろ、いつも思うことは、平和や安全を心底希求する一方で、愚行を抑えきれない人間の営みへの底なしの空虚感、絶望感がある。

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