中止しなかったセンバツ

センバツを開くかどうか、大会本部が開催検討会合を持つ前に、中止すべきだと主張した。しかし、大会は強行されて日程を消化、今日閉会というので、もう一度、当方の見解を書いておきます。

結論からいえば、我が国の野球少年とその周辺の関係者は、我が国がどのような「国難」、あるいは未曾有の大災厄に遭っても、我れ関せず、どこ吹く風とボール遊びをしよう。被害者や被災地のことなんか、どこ吹く風とボール遊びをしよう。そういう世界でも稀な自分本位の世界に耽溺する伝統を築く第一歩を踏み出したことになる。

開会式。偶然ラジオを聞いたが、大会主催者の毎日新聞社社長も高野連会長のあいさつも、この一大事の際になぜ大会を開くのか、いいわけ、釈明ばかりしていた。後ろめたいのだ。そして被災地の人々の希望と勇気を、あるいは一生に一度しかないかもしれない甲子園を踏む機会を与えてやりたい、などと話を結んでいた。

ようするに初めから「開催ありき」にもっともらしい、きれいごとの理由をくっつけたのにすぎない。他のスポーツ、イベント等が中止、延期しているのにである。不幸な事態が生じたら、その不幸の谷間に沈んだ人々の心が安らぐ時間が必要です。そのうえ、周辺のものは「服喪」して、同様の哀しみを体現するのが、この国の美風ですが、そんな配慮はいっさい無視された。野球ぬは野球である。野球を貶めるつもりは一切ないけれど、この時期、もっともっと大切なことがある。かれらおエライさんたちは、二週間まえに不測の死を迎えた近親者がいても、「勇気と夢」を満たすために野球をするつもりになるのか。

そのうえ、被災地の高校チームを大会に参加させて、ムリヤリ感動と勇気を盛り上げさせた。じつにあざとい演出ではないか。スタンドで義捐金集めをするとか、鳴り物入りの応援をやめるとか、開会式の歌を短くするとか、そんなセコイことをするのも、後ろめたさを隠すためであろう。この国には、人さまが災難や不幸の際には「歌舞音曲」を慎むという美風があるというのに。

高野連会長が言う一生に一度のことなんかは、長い人生で何べんでも経験することである。最悪の犠牲者が続出しているときには、自分の趣味嗜好を我慢する、やむを得ず見送るという姿勢も大切なことである。大会関係者はそうした絶好の生きた教育上の配慮を見捨てた。伝統の大会であるがゆえに、非常時の際は勇気を持って大会を中止、次の機会につなぐことで、いっそうの伝統を磨くことができるという教訓を生かせなかった。

高野連会長はかつて早稲田の総長だった。その早稲田は被災地の学生らに配慮して、授業開始を例年よりも一カ月遅らせると伝えられている。どこの教育の現場でさえ、学費の免除、入学時期の遅延など、いろいろな配慮がなされている。

教育の一環であると自賛してやまないセンバツが強行されたのは、結局、この国にいかなる不幸な出来事が起きても、みんな恐縮するふりして、ボール遊びをしようという新たな伝統をつくるつもりだったに違いない。

大きくなりすぎたイベントは、利権なんだ。

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