彼岸の墓参り


P1040639_20170926220030df8.jpg

お彼岸に亡父、亡兄の墓参りをしました。
久しぶりです。春秋のお彼岸、お盆と年に三度も慣習的な機会があるのに、ここのところ、ずっとごぶさたでした。不義理なことです。

この墓は亡父が生前に用意したものです。日常的に父とあれこれ話すことがありませんでしたので、長くその存在さえ知りませんでした。なんでも場所柄から、「いい景色が眺められるだろう」とか言って、山の斜面にある墓苑の一角を選んだそうです。

亡くなったあとは、せっせとお墓参りをしたものですが、結構遠いところなので、当方ら遺族もしだいにトシをとってくると、クルマで行くのがしんどくなります。バスや電車を乗り継いでいくとなると、半日がかりです。

墓地選びには、お参りする遺族のことも考えなくてはならない。地方にお墓があって、都会に出て暮らしている人たちにとっては墓守というのが、たいへんな重荷になっていると聞きます。訪れる人も絶えて、夏草ぼうぼうとなり、、、、そんな光景が少なくありません。

当日、見ていると、お花をもって家族で参ってきて掃除をしたり、ひとりだけの老女がしゃがんで、草むしりしていたり。足早にやってきて、お花を添える、合掌するや、戻っていく早業の人もいます。なにか他に用事があったのかもしれません。そのようなせっかちな墓参もありかと見送りました。

お墓のなかにはなにもありません。遺骨の歳月とともに土に還っているでしょう。墓石に向かって花を供え、線香をあげ、手を合わせるのは、ほかならぬ残された人の気持ちのありようです。

そうすることで、故人とのかかわりをふり返ったり、癒されたり、和まされたりしますが、お墓の主は与かり知らぬことです。先祖供養というのは、生きている遺族の気持ちを穏やかにするメンタルな行為です。

昨今の葬儀事情や墓地事情にはビジネス絡みのことで、いろいろな動きや不具合が伝えられていますが、ことは、あくまでも遺族に内面の問題ですから、気持ちが納得できるものなら、どんなかたちでも供養になるはずです。

当方はアウトとなれば、亡父、亡兄の墓に入りますが、そういうものがなくて、自分自身で墓を決める立場であったとすれば、墓地は不要です。生きていてこそ、なんぼのもので、亡くなったあとのことは、知りませんよ、そういう考えをするたちです。

それでは遺族の無責任だという声が聞こえてきそうですが、供養というのは、遺族の諸般の事情しだいのもので、あれこれ言い残すことは逆に負担を与えるようなものです。死者が生者を制約するのは、行き過ぎです。

すでに兄の亡くなったトシをはるかに超えて、亡父の享年と同じトシになりました。いろいろあったが、よくまあ、生きながらえてきたものだ。お供え下がりのビールを飲んで、青い秋空が、いっそうまぶしく感じられました。

コメントの投稿

非公開コメント

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる