裁判員制度

本職の判事のほかに一般市民が裁判に参加して、法律違反の事例について正邪の意見を述べる機会が与えられる制度が来年から発足する。

判事の仕事は、罪状の黒白と情状を判断する。ときには人の生命を奪ったり、一時的にせよ社会的な存在を断罪する重大な仕事である。資格を得るのに難関の国家試験があるきわめて専門性の高い仕事である。そんな専門家の仕事に素人の判断がなぜ必要なのか、そこがわからない。

専門性の高い重要な仕事は、たとえば医師、弁護士、会計士、飛行機操縦士や固有の生産物を生出す多くの職人など世の中にはいくらでもあるが、その判断の元に素人の判断が入る余地がないし、判断を求める制度もない。医療におけるインフォームドコンセプトとワケが違う。みんな自分の仕事に誇りと責任を持って遂行し、あわせて社会からそれなりの信頼や尊敬を得ている。逆に失態があると、強い批判にさらされ、信用を失う。


このことから考えると、裁判員制度というのは、判事が責任ある判断ができないか、判断する能力に欠けることが多いので、衆議を諮るということなのだろう。判事のみでは責任が持てないので、「みんなで渡ろう」というわけか。つまり、現行の判事職たちは、他人の意見に耳を傾けなければ、判断が出来ない集団なのだ。放置すれば、正当ないし妥当な判断が出来ない制度であるということだ。どうやら、そう国は認めたようだ。少なくとも、逆に失態があると、強い批判にさらされ、信用を失う仕組みに乏しい。とんでもない非常識判決を出す判事がいるが、非常識のゆえに責任を取らされた話をきかない。だから三審制だと思っていたが、そのほかに判事の資質や裁判制度に問題があるということのようだ。、

多角的、多方面からの意見を聴取して判断するというのは、いっけん民主主義的な公開性や透明性を備えているようであるが、実際には行司だけでは勝敗のをジャッジに完璧を期待できないので、判定にビデオの力も借りたいということと似ているのか。

だいたい刑事事件の判決文なんか、ほとんど前例踏襲、「思慮に欠ける自己中心的な犯行で、、、」と文例集から抜き書きしたようなマンネリで、しかも時代の風潮におもねり、行政の意向に与して、自主自立した判断がすくないのが現状である。もはや司法の独立性を信じている人は少ない。

判事の専門的能力の低下に伴い、国民が自己の生活の不便を強いられてまで参加を強要されるのは、厄介な話である。判事を含む公務員諸氏を養うために精励している国民は、二重の意味で面倒にかかわることになる。

裁判員制度よりも、現行の国家試験のあり方、判事の社会的能力開発といった問題、たとえば任官年齢35歳以上にするとか、一定の社会的経験を有することが条件とか、公開前に判決文を内々に提示して、その妥当性を吟味する司法組織の内部精査制度など創る方が先決である。

コメントの投稿

非公開コメント

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
プロフィール

tajifu

Author:tajifu

ブログ内検索
RSSフィード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる